万引きしてやったぜ!

早まって2chあたりで祭りにしないで下さい。

今日も目白でジェレミーのアレクサンダーレッスンを受けまして、二回目ということもあって、少し余裕もあり、前回よりかなり、グ、っとくる言葉を拾えたり、なにより、現在自分の抱えている問題(精神・身体的問題)にとって、非常にありがたいワークが行われたりしたため、帰りの道々歩きながらも、なかなかいい感じの状態が持続できていて、ほとんど瞑想しているかのように動き続け、帰り道になるジュンク堂へと入っていきました。

いつものごとく4階人文のフロアにエスカレーターで上っていき、心理療法の棚を見るとアーノルド・ミンデルの新刊が!。かなりうれしがってその本を手に持ち、3階へ。文庫の棚を一通り見て、エスカレーターで降りようとするときに、堅い動きの股関節を気にして、無駄な力を込めず柔らかく降りようと一段一段、ゆ〜っくり降りて、そのまま店の外に出て行ってしまいました。

ご存じの通り、ジュンク堂の会計は、すべて1階の精算カウンターで行うようになっていて、本を持ったままエスカレーターを下っていかなきゃならない。

そのエスカレーターで瞑想に入ってしまって、会計の済んでない本を手に持ったまま、しれ〜、と店外に出る。出口のところにセンサーか何かがあるかと思いきや、なんの警報音も鳴らないし、あんまり自然に出て行ったもんだから、誰も気付かない。

100mほど歩いていったところで、あれ?、俺はなんでこの本を袋にも入れずに持ってるんだ?、と思い、精算してないことに気付きました。

一瞬、あ、これは儲けた、などと邪なことも思ったのだけど、こういうのは、儲けた金額以上に、内側への悪影響(罪悪感だの次にジュンク堂に入るときの緊張だの、他もろもろ)があるのは間違いないことなので、あわてて引き返しお金を払ってきました。

外から店内に入るときにちょっと緊張した。

いくつかレッスンメモ

①その感覚のまま「居てもいいよ」というだけのスペース・余裕。あとは、その感覚が、どうすればいいか教えてくれる。すぐに(反射的に)直そう、とするのではなくて、「居てもいい」、という自覚オンリーの感覚。

②キープするのではなく、「動いていてもいい」という感覚を忘れない。デリケートに。

③かかと50%、拇指球25%、拇指球の小指側25%、というような感じで床との接触感を持ち、足裏でバランスを取るのではなく、その接触感のままを維持するようにデリケートに各関節を動かす。キープしない。固めない。

13325円 /録画一回失敗

NHK-BSで再放送されてるニコニコ日記

月曜の夕方六時くらいまで、録画予約録画予約、と思ってたのに、ボヤっとしてたら終了時間過ぎてて、があ!・・・、と嘆いた勢いで13325円のDVD-BOX、Amazonに注文してしまった。

今日配達されて来たの見てたらとまらなくなっちゃって、やらなきゃならないことに支障がでてきたので、一端見るの止めた。

なんか、手に入った感がうれしく、これ買いたかったがために、無意識のうちに録画失敗したんじゃなかろか。

ぐらぐら

最近、「あっち」のほうに傾いているせいか、非常に不安定なくせに嫌に高く組んだ足場の上でグラグラと恐怖を感じる夢を度々見るはめになっておりまして、これまで活字の中で「師匠」と思っておった内田樹先生なり甲野先生なり神田橋先生などより、実際に接触する機会の増えているアレクサンダー系の先生にすがりつきたく思っておりまして、でも、たぶん、そういう日和った態度は、もう、私には、許されてないような、って、以前にも書いてた気がするなあ。

いつも通り、あやふやにごまかし、分かられないようにするつもりの、「あっち」なる語、なんですが、自身のオウム真理教体験から慎重にならざるを得ない、神秘主義的傾向から、どうやっても逃れられない方向に走りつつあると覚悟を決めつつありつつまた躊躇しつつでもやっぱりなあと思いつつ悩みつつあります。

でも、これは、これまでの私の流れからいって、「変節」ではまったくない。考えれば考えるほど、また、経験を重ねれば重ねるほど、やーっぱ、どう考えても、多数派的(常識的・「科学」的)思考というものは、あまりに現代人にはまり過ぎていて、その、はまり過ぎ具合が、「未知」であるとか「分からなさ」であるとか「超越的なもの」であるとか、なにしろ「外側」なものに対する不感症具合を悪循環で増幅しているとしか思えなく、そのへんを、一足飛びに「超能力」とかいってごまかすのではなく、半歩ずつでも、(ええ?そうなのか?!)という方向に切り崩していける言葉遣いなり活動なりをしていけないものか、という気がしている。

それは、まず、どうやって「椅子から立ち上がるか」・・・・どころじゃないな。どう「立っているか」、どう「居るか」というくらい、今、ここ、という根源に引き戻せるか、という問題でもあるのかもしれない。

人は、ほんとに、「今、この瞬間」に止まることが難しく、そこにこそ、「合意的な現実」をしか“リアル”と認められない根源的病理が胚胎している。

身体操作のための覚え書き 2

・「壁」あるいは「人」を、押そう、と思ったとします。その際、“実際”“現実”の壁なり人なりを、押そう、と思った時には、視覚的にはもちろんのこと、「触覚的」にも、押す--押される、という双方にとっての接触点が必然的に要請される。

さて、私が甲野善紀先生と、そういった、「押し合い」、の手合わせをさせていただいた時、体格的にも力的(筋力的)にも、どう見たって明らかに私のほうが上回っていたにも関わらず、いとも簡単に押し込まれてしまったり体勢を崩されてしまったりしたのだけど、その時の率直な感想をと言えば、(あ、なんかズルイなあ、こっちの準備もできてないうちに・・)、というような思いばかりがあった訳です。

しかし、よく考えてみると、どれほど体力的に優位にあったとしても、絶対的に、「押し込まれない」という準備は、できない、としか思えなくなってきた。

簡単な想像をしてみていただければ分かると思います。

たとえば、今、一番身近にある、壁なり床なり、普通に考えて動くはずのないものを押してみます。その際の筋肉の動きをとくと味わってください。

次に、「想像上」で壁なり床なりがあると思って、その壁(想像上の)なり、床(想像上の)を押してみますと、その時の筋肉の動きは、“実際”の壁なり床なりを押してみた時の筋肉の動きとは、どうやったって、違ってくる。“実際”の壁なり床なりを押している時のような力を込めることはできない。

ところが、甲野先生と、手合わせしていただいた時の感触というのは、こちらが全然構えていない隙に、ぐにゃぐにゃ、と押し込まれてしまっていて、(いやいやいやいやいや、ちょっと今のは無しですよ、ずるいなあ・・)、という風にしか思えないように体勢を崩されてしまっていた。

そんな風にやられてしまうのは、「いつもの」がっちりと力を込めて構えた姿勢を「とる前」に押し込まれているのだから、きちんと構えてさえいれば押し込まれることはない、と思って構えていたからやられるはずないと思っていたのだけど、結局のところ、ぐにゃぐにゃ、と押されてしまう。

それって、もしかして、こんな感じなんかな、と図説してみますと、

<①>
         |
         |
−−−−→ × ←−−−−
         |
         |


左からある力で押されたとすれば、右から同じ力で押し返せば、その接触点で動きはおこらない。(左右、どちらからの力が強ければ、その力が押す方向へと接触点は動くだろう)

<②>

         |
        
(−−−→)
        
         |

実際には、そこになにも無いのに、なにかあると思って力を込めたとしても、実際に押し込まれているようには力は込められない。要するに、そこには何もない。

<③>


         | ←

  (−−−→) |

         | ←

実際には何もして無いのに、体格や筋力の見た目で押されるはずがないと思っている方は、なんだか分からないまま(たいした力も込められないまま)、押し崩されてしまう。


普通、押し合いへし合い、となれば、手のひらなり肩と肩なり、ぶつかり合う「点」が双方に感じられているはずなんだが、甲野先生の場合、その「点」が無いまま、こちら側に押し込んでくるもんだから、(いやいやいやいやいや、いまタイミングはずしたでしょ、ズルイなあ)、という風にしか感じられない。こっちがどれほど準備しようと思ったって、なにもないところに力は込められない。なにもないはずなのに、こっちのほうへと押し込んでくる気持ちの悪い人。それが達人w

アレクサンダー・テクニークでは、たとえば、椅子から立ち上がる際にも、なるたけ「立ち上がる」とは思わないように動くことが肝心なことで、それよりも大事なことは、椅子から立つ、であるとか、相手を押し込む、とかしているときに、自分が何をしているのか・自分の身体がどう反応しているのか、ということを自覚することこそが第一に気をつけねばならないことで、うまくできたとかできない、とかは、はっきりいって、どうでもいいことなんである。

要するに、なにを「する」にも、「しない」ようにする、と。まあ、これがどれだけ困難なことか、一度あなたも体験してみたらどうでしょう


・これは、以前、hpで感想を書いた「あっかべぇ一休」というマンガを読んだときにちょっと想像したことなんですが、それは「洞山三頓の棒」という禅の公案が描かれていたところから


・・宋の時代、修業僧の洞山(とうざん)がはじめて師・雲門のところへ参じた時のことだ。師・雲門が問うた。「おまえはどこから来た?」「査渡から参りました」「この夏はどこにいたのだね?」「湖南の報慈寺にいました」「いつそこを出立したのか?」「はい、八月二十五日です」「このうつけ者!!棒を三頓もくれてやりたいところだが棒が汚れるわ!帰れ帰れッ」(とさんざん叩かれ)さてこの修業僧は考えこんでしまいます。「昨日は一睡もできませんでした。私のどこがいけなかったのでしょうか?お教え下さい」「たわけッ、穀つぶしめ。まだそんなことを!長い間修業を積んだだと!?いつまでウロウロしているつもりだァ」「ハッ!・・」この時、洞山はにわかに大悟する。

この、「いつまでウロウロしているつもりだァ」というところに単純にしてなかなか分かりづらい公案への「対応」の仕方があるとは思うのですが、そのへんは各人、お考え下さい。今日書きたかったのは、その時の想像した、たとえば、今、私がカレーを食べたくなったとして、近所のcoco一番館あたりに行くとすると、「私がこの部屋からカレー屋に行く」という能動的な記述になってしまうところを、まずは(カレー屋に行きたい)という方向性があり、あとは、身体と世界の有り様が、「私」と呼ばれる者のところへとカレー屋を近づける、という風に考えることこそが「天上天下 唯我独尊」ということに他ならないんじゃないか。達人の言う「身体に任せる」感覚や、アレクサンダーの「プライマリーコントロール」ってそういうことなんじゃないの?」という感じがあったりする。

んん・・・、思いの外、上手く書けない・・・

身体操作のための覚え書き 1

・「リラックス」より「スペースを作る」という言葉のほうが、より調和した楽な感覚が得やすいように思える。

・甲野先生経由で知った「正中線」というのは、アレクサンダーの言う「プライマリー・コントロール(抗重力筋肉組織の微妙な調整作用)」と、ほぼ同じ意味なのではないか。今までの私の感覚では、「頭の重さを脊髄から股関節を通って抜けた膝と接地感の薄い足裏へ通す」ことができている感覚。身体を起こし始めた赤ん坊は変な意識をしなくとも「プライマリーコントロール」の状態、「正中線」を出した動きをしている。

・自分の場合、股関節の力みが全体のバランスを崩しているように思える。上半身を前方に傾けようとするときに、どうしても、「腰」と呼ばれる部分から曲げようとするのだが、そうすることが、さらなる他部位への緊張を呼び込んでいる。反っくり返った例の姿勢を正そうとしたときも、妙に、背後の筋肉に緊張がはしっているところがある。股関節から曲がる感覚が、まだ鈍い。

・「なにかをしよう」と思うと、どうしても「起こり」が出てくる。黒田鉄山先生は、弟子に対している時、相手が動いてもいないのに、「はい、ここダメ」「ここから動こうとしてる」みたいにパシパシ竹刀で指摘しているらしいけど、アレクサンダーの教師だと、その時見ているのは「首」の動きということになるのではないか?その動きは、どこから始まる、ということではなく、まさに、「習慣」つまり機械的にそうなってしまっているということ。

機械的に動いているときの「私」は、この世界でなにが起こっているのか完全に見失っている。たった一つ肝心なのは、今、まさに、ここで、なにが起こっているのか常に「自覚」できているということ。あるいは、「私」がなにをしているのか、ということを「自覚」すること。それが「プロセス指向」ということだろう。それはとりもなおさず、『「することをしない」ことする』ことをしない・・((以下無限)ということに他ならない。

・自由を意識できている、というのは、「選択肢」を意識できている、ということ。意識というのが「何かを止める」仕事をしているのだとすれば、「なにかをする」ことを思いとどまること、思いとどまれること、が、意識の仕事であり、自由、の感覚の元でもあろう。(http://d.hatena.ne.jp/fkj/20051227

・身体にまかせる、まかせることができる、というのは、意識をはずした環境と身体によるプライマリーなコントロールにまかせる、ということで、それは、この世界の物理的法則に従うということになり、ほとんど「運命論」とでも言うより他ないことにもなろうが、「自覚」は、それを「しない」こともできる。というか、「しない」ことしかできない。甲野先生のひたすら追求してきたという「すべては自由であり、かつ、運命である」というのは、ここらあたりに悪くない「形容」があるように思える(それは「答え」ではない)。

尾崎豊「I love you」

池袋駅にくっつく某デパートの営業開始時間前、店員たちが始業準備している店内ではBGMとしてヒット曲などがかけられていた。私が店内を歩いていると尾崎豊の「I love you」がかかりはじめた。

それほど好きな歌というわけではなかったが、なんとなく一緒に口ずさんでいると、始業準備にいそがしい店員の何人かも口ずさんでいるのに気付いた。

ふとあたりを見回すと、どうやらほとんどの店員が歌い始めていて、なにやら、合唱しているような様子に。

曲が終わると、店内全体にぼんやりとした一体感と感動が漂っていた。

一曲、他の歌が放送された後、選曲をまかされている放送担当か誰かが、再び尾崎の「I love you」をかけた。

先ほどの余韻さめやらぬ店内では、今度は、はじめから全員で大合唱の様相を呈してくる。

私はその某デパートを出て、池袋駅構内へと歩みを進めたのだが、どういうわけか、駅の中にも尾崎の歌がかかっていて、利用客のほとんどが、やはり、一緒に歌っている。

気付いてみると、それまで、その大合唱をリードしていた尾崎の歌は、放送担当者のアカペラとなっていて、実に実に感情を込めて歌い上げている。

最後の「悲しい歌に愛がしらけてしまわぬように」のところにくると、段々とスピードを緩め、実に実に情感たっぷりに合唱が終わり、一瞬の間があった後、池袋の駅周辺にいて一緒に歌っていたすべての人々から大きな歓声と拍手がおこる。

その盛り上がりが、引き潮のごとく徐々におさまっていくのに合わせ、人々は、三々五々、自分の用事や目的に向かって戻っていくのであった。

戦争を、空を飛びながら俯瞰で眺める夢を見たことはあったけど、こういう奇怪な集団的な夢を見たのは、記憶にない。俺、だいたい、尾崎の「I love you」、全部、歌詞知ってるわけじゃないし。今のところ、ほとんど、意味不明。連想としては、蝶々のはばたきが台風を産む、ってストレンジアトラクタを思い浮かべた。複雑系な夢?


「I love you」

I love you 今だけは悲しい歌 聞きたくないよ
I love you 逃れ逃れ 辿り着いた この部屋
何もかも許された 恋じゃないから
二人はまるで 捨て猫みたい
この部屋は落ち葉に埋もれた空き箱みたい
だからおまえは子猫のような泣き声で
きしむベッドの上で優しさ持ちより
きつく躰 抱きしめ合えば
それからまた二人は目を閉じるよ
悲しい歌に愛がしらけてしまわぬ様に

I love you 若すぎる二人の愛には触れられぬ秘密がある
I love you 今の暮らしの中では辿り着けない
ひとつに重なり生きてゆく恋を
夢見て傷つくだけの二人だよ
何度も愛してるって聞くおまえは
この愛なしでは生きてさえゆけないと
きしむベッドの上で優しさ持ちより
きつく躰 抱きしめ合えば
それからまた二人は目を閉じるよ
悲しい歌に愛がしらけてしまわぬ様に

あ、なんかグッときたw
まじでまじで

エリザベス・キューブラー・ロス

終末期医療の確立に決定的な一打を放ったといわれる名著「死の瞬間」の著者、キューブラー・ロス博士のドキュメント番組を見た。

四十年に渡る活動を終え、隠遁生活に入るやいなや、脳卒中で半身不随になり、以後十年の長きに渡って、人の世話なしには生きられなくなったロス博士は、神に対して、「あなたはヒトラーか」と嘆いたという。

おびただしい数の末期患者と対話し手を握り看取ってきた博士。あんなに立派なことを言っていたくせに自分のことになったらそうまで怒るか、とマスコミには叩かれたらしい。

しかし、死後の生にまで深入りしていった人が、神に憎悪を表すって、相当なことでしょう。俺は、「ヒトラーかって思った」、ていうの聞いて、ああ、この人は信用できるな、と感じたけどなあ。

なんというか、落ち込んだ時の様相に、この頃、変化があって、普通の人が気にもかけないことにも意味を感じたりして、それがこう、いい方向で行動のほうに繋がっているのは間違いなのだけど、たった一個の否定的な出来事によって、それまでこさえてきた世界の肯定的な意味が、すべてひっくりかえり、その意味の繋がりはそのままに、すべてが自分に対して悪意をもって現れるように整序されていたんだ、ってくらい、全体的な世界の有り様に憎悪を感じるところも出てきてしまって、そういう陽と陰の両極がなにやら尋常でないくらいひらいてしまって、週替わり日替わりでくるくる回ってやってきてます。

で、そんな大したことがおこっているわけじゃない俺でさえそうなんだから、キューブラー・ロスの思いたるや、ヒトラー、程度の形容では言い切れないものだったんじゃなかろうか。またもや、どうしてもヨブのことを思い出してしまう。

そして、それでもやっぱり、そういう経験は、必要とされているとしか感じられない。

博士は言います。「人間には二つの大事なことがあって、一つは人に愛を与えること。もう一つは愛を受け入れること。私は、愛を受け入れることが、どうにも嫌い」

そう。もう、嫌えば嫌うほど、「それ」はどうしようもなく自分の人生に付きまとう。無いことにしていたとしても、博士のように、やっと人の世話を辞めたところで、自分が世話を受けなきゃ生きていけなくなるような皮肉なことになってしまう。

でも、それは生きられていない可能性でもあるわけだ。

なにかをどれほど厭おうと、というか、厭おうもの・嫌うものにこそ当人にとって生きられていない側面があり、それからは決して逃げられない。逃げれば逃げるほど、破滅的な形で、また、恐ろしく皮肉な形で襲ってくることになる。

この頃、もっと真摯に宗教について考えなきゃいけないな、と思う。それは、既成のものなんかじゃさらさらなくて、というか、本来、それぞれの人はそれぞれに「信仰」を立ち上げておくべきなんじゃなかろうか。真の宗教は党派には走らない。

しばらく縁のありそうな仏像というか小物でもいいし絵画でもいいし、トーテムというか、祈りの対象の象徴・・・というか、対象そのものであり内的な世界そのもの(神的なもの、と言ってもいい)でもあり、そんなものを探そうかなあ探したいなあ、などと思ってます。

↓このへんのモノなんか、かなり、ぐっとくるとこがある。
http://takochu.com/watabe/