ぐらぐら

最近、「あっち」のほうに傾いているせいか、非常に不安定なくせに嫌に高く組んだ足場の上でグラグラと恐怖を感じる夢を度々見るはめになっておりまして、これまで活字の中で「師匠」と思っておった内田樹先生なり甲野先生なり神田橋先生などより、実際に接触する機会の増えているアレクサンダー系の先生にすがりつきたく思っておりまして、でも、たぶん、そういう日和った態度は、もう、私には、許されてないような、って、以前にも書いてた気がするなあ。

いつも通り、あやふやにごまかし、分かられないようにするつもりの、「あっち」なる語、なんですが、自身のオウム真理教体験から慎重にならざるを得ない、神秘主義的傾向から、どうやっても逃れられない方向に走りつつあると覚悟を決めつつありつつまた躊躇しつつでもやっぱりなあと思いつつ悩みつつあります。

でも、これは、これまでの私の流れからいって、「変節」ではまったくない。考えれば考えるほど、また、経験を重ねれば重ねるほど、やーっぱ、どう考えても、多数派的(常識的・「科学」的)思考というものは、あまりに現代人にはまり過ぎていて、その、はまり過ぎ具合が、「未知」であるとか「分からなさ」であるとか「超越的なもの」であるとか、なにしろ「外側」なものに対する不感症具合を悪循環で増幅しているとしか思えなく、そのへんを、一足飛びに「超能力」とかいってごまかすのではなく、半歩ずつでも、(ええ?そうなのか?!)という方向に切り崩していける言葉遣いなり活動なりをしていけないものか、という気がしている。

それは、まず、どうやって「椅子から立ち上がるか」・・・・どころじゃないな。どう「立っているか」、どう「居るか」というくらい、今、ここ、という根源に引き戻せるか、という問題でもあるのかもしれない。

人は、ほんとに、「今、この瞬間」に止まることが難しく、そこにこそ、「合意的な現実」をしか“リアル”と認められない根源的病理が胚胎している。