ミンデルワークショップ後日記

昨日は、書いているうちにどんどんとワークショップ当日の高揚感がよみがえってきて、それが、(どうもこの部分の書き方は感覚とズレがある)、というように思い出したら、いきなり書いていくノリが悪くなったのであとで直そうと止めておいて、頭から最後まで通しで読んでなかったミンデルの「紛争の心理学」を再読し始めたら、ミンデルの講義のときに感じた、猛烈な情報量の多さに頭が爆発しそうになった。

で、その情報量の多さ、というのは、講義の内容や書いてある内容というわけではなく(同じ時間、同じ文字数でなにかを伝えようとしたら、よっぽど馬鹿でない限りそうたいして込められる情報量に差は出てこないだろう)、それ以上に、ある文章を少し読み進めると、ワークでの出来事やそれ以外での私の生活や読書体験の中からのデータがズルズル連想として引っ張り出されてきてしまって、二次元の情報が立体化・時間化して立ち上がるようなところがそのまま頭の中でも膨れ上がっていく感覚に繋がってる感じ。

私はそれほどでもなかったのだけど(なにしろ面白かったから)ワークショップ三日目あたりは、ミンデルの理論的な講義の時間、かなりの参加者が眠いということを訴えていて、これって、身体というより脳のほうの活動量がたいへんなことになってるんだろうな、とか思った。

いい読書体験って、本来そういうもんだろうと思うし、それは様々な学びの場においても目指されるべき目標という気もする。立体化・時間化、って、要するに身体化・現実化ということですよね。

そうして、話は昨日のことに戻るのですが、ミンデル本、何ページが読んでいるうち、上のように頭がフル回転してきたため、まだ戻りきっていない体力がついていかなくなったのか寝てしまったのでありました。

昨日は、つい「休んでる場合じゃない」、と書いてしまったように、高揚感が落ち着いてくると、この、なんというか、多幸感とでもいうか、を、自分の活動としてつなげていかないといけない、みたいな使命じみた思いが頭をもたげてきてて、ところが、それを、具体的にどういう活動へとつなげていけばいいのか、ということを考え出すと、もどかしさやら焦燥感やらといった、私的にはなじみの感覚も沸いてきていた。

それは本を読んでいるときもずっとあって、少し眠ろう、と本を置いたときには、なんか焦ってんなあ、やだなあ、みたいな気分もあった。

小一時間ほども寝たんだったか、目が覚めて、でもしばらく目を開けずに、睡眠の余韻を味わうようにしてたら、(あー、そうそう、今はこうやってボケーっとしててもいいんだ。多分、なにかしなきゃならないときはそういう状況に陥っていくんだし、今は、こうして、過去の自分が作ってきたポジションに甘えたらいいんだ)、ってな考えに浸ってるうち、なんというか、この考え完全に正しい!、みたいな、全肯定の気分になって、またも、なにやら、ありがたやありがたや、な、おめでてー気持ちになったのでした。

で、その感謝の意を表すためについついやってしまったことが。

五体倒置といってチベットの僧侶なんかがやる、祈りを捧げるために体を地面に投げ出す行為があって、私は昨日は横になってたので倒置はしなかったのだけど、五体倒置で体を投げ出す前に行う、両手首の内側を合わせるようにして花の形をつくり、それを頭頂、額、のど、胸、上腹部、下腹部、恥骨、会陰という、いわゆるチャクラという奴がある部分に、その「手の花」を捧げるようなことを、我知らず(ということもなかったけれど)してしまった。

その心は、というと、眠り込む前、まずは、眠いなあ、という感じがあってそこにはすぐ従うことができた。また、腹の底がもやもやと・・・、な焦りの感覚にも気は向いていたし、それを嫌だなあ、という思いにもまた開かれていた。そうして目覚めてみたときには、今、自分、甘えてんじゃん、過去の自分(とそれをとりまくすべての環境)に抱えられて、こうしてのほほ〜んとしていられてんじゃん、ということにも否定的にならずに感じられてた。

そういう「感覚」に対して、開いた態度でいられる、ということ、そこに、深淵というかなんというか、大いなるもの、とでも言いようがないある感覚、予感、がかいま見え、それは、腹の底のもやもや、であるとか、頭が膨れ上がって爆発する感じ、であるとか、平日の昼間から毛布にくるまれてまどろんでいる甘やかさ、であるとか、心身が相関したすべての感覚があったればこそ、それらすべてを包み込む、大いなるもの、とでもいいようがないものが表れてきていた。

精神分析家、北山修の「こころの消化と排出」あたりに詳しくあったと思うのだけど、気持ちって、「腹が立つ」であるとか「胸が張り裂けんばかりに」「甘える(味覚)」「(頭の中の線が)キレる」「(胸が)ムカつく」「腑に落ちる」・・・といったような身体との関わりの中で表現されるわけで、「怒った」から「腹が立つ」わけではない。むしろ、腹を中心としたあたりにウネウネするわけのわからないものが発生し、それを外(親など)から「怒り」という風に同定された、というのが、発達の中での筋道であろう。

私の身体という場の中にあるもの、それらすべてに開かれてみるよう試みてみる方向にほの見えるなにか。チャクラ、といったようなヨーガ的な考えってそういうことなんでしょう。

で、本筋はここからなんですが、そうやって思わぬいい気分で起きあがってみると、なんかすげーよく見えるんですよ、周りが。

私、裸眼で両目視力0.1たぶんない(左は確か0.02くらい。右は忘れた)くらいだと思うんですけど、なんか、部屋の中のものがやけにはっきり見える。もちろん、メガネをかけたときほどしっかりと見えているわけではないのだけど、いつも、ぼやけて白濁がかった感じの視界が、えらくはっきりしている。

この感覚は、スレテオ写真(ランダムドットステレオグラムとか)に集中したときにも感じられたのだけど、これといってなにもしてないのに、ステレオ写真を見た時以上にいやにはっきり周りが見え、あまりのことに外に出て行って、銭湯などにも行って、周りを見わたしても、俺、メガネいらねーんじゃないの?というくらい、もう、ものすごいよく見える。

でも、これは、視力検査的な見え方とは、たぶん全然違ってて、なにか文字を読もうと視線を集中させた途端、またいつもの状態に戻っちゃう。今もパソコン画面はメガネして眺めてるし。

その、異様に辺りがよく見える状態に興奮してしまって、昨日、書き始めて止めておいた分は後回しにして、そのことについて、メガネをかけてmixi日記の書き込み画面に直接長々と書き込んでいると、ここんとこ調子の悪かった私の愛用ブラウザsleipnirが強制終了!。

一瞬、ウガ!と思ったけれど、これは、たぶん、先に書いた分をupせえ、という流れと判断し、今日、このことについて改めて書いている現在、昨日のような見えは消えてしまいました。

この経験って、いったい、なんなのか。絶対に関係あるとしか思えないのは、先日書いた
http://d.hatena.ne.jp/fkj/20060501
眼はどこにいてもいい、という話で、この、眼はどこにいてもいい、というのは、今回プロセスワークの中で出てきた、私のダンスとも大いに関係しているのだけど、今日はさすがに疲れてきたのでまた次回。

続きのためのメモ。
問題は目だけにあるわけじゃない。脳全体、というか、身体全体との関係。それと、なにか「対象」を見る、という視線と、武道の「居つき」との共通性について。そうそう、なにか「対象」を見る、っていうのは、完全に居ついちゃってる状態だよなあ。それと、昨日の感覚は、視野がとんでもなく広がっていたのと、世界の色味がかなり感じられていた、ということ。

この経験。うまいこと意識的につかめていければ、いつかメガネがいらなくなるような気がするんだがなあ。
http://www.alexandertechnique.co.jp/modules/weblog1/details.php?blog_id=18
彼の本、おそらく翻訳は出てきまい。ちょっとがんばってみるしかないか。