撤回(ミンデルワークショップ体験記①)

休んでる場合じゃない。

というか、月曜、ほとんど使い物にならないくらい一日呆然としてたらだいぶ抜けてきたのか、昨日あたりから徐々に普段の、ちょっと低めのテンションに落ち着きつつある。

したら、なんかしらん、このまま、いろいろありました、ってだけじゃ絶対まずいという気がおこってきたので、書ける範囲でできるだけ細かくなにがあったか記録しておきたいと思います。

そういえば、ワークショップ終わって帰った日曜の夜、大家さんが所用でうちに来たので、よもやま話なんぞしたのだけど、その時の会話のテンションが、我ながら、俺どうした?、というくらいハイになってて、口には出さねど大家さんもかなり変な顔してた。

さて5日金曜、ワークショップ初日。・・・・と書いて、順番にいこうとするものの、それだと今の感覚に合わないので、行き当たりばったりに思いついたことを書いていくことにします。

ワークショップは三日間とも、午前10時から午後5時までとなっていて、大まかに、朝の一時間半くらいを、その日行うワークとそれについての理論的説明がエイミー、アーニー2人からありトイレ休憩した後、午前のワークのデモンストレーションをご夫妻に見せてもらってから、参加者各人で行って、1時をたいぶ越えてから一時間ほどの昼休み。昼休み中、日本人の認定プロセスワーカーから、チュートリアルということで希望する人だけが参加して午前中のことについての質問だとか、プロセスワークの基本的なことの説明だとかを床に車座に座りながらしてもらう。中には食事をしながら話を聞く人もいた。んで午後は午後のデモ、それぞれでワーク。時間があれば最後に何人かのワークの様子を、皆の前で見せてもらって終わり。というような流れ。

チュートリアルで思いだしたことが一つ。チュートリアルの担当者は三日間とも違った人がやって、私は初日は参加せず、二日目は、車座になっているすぐ外側で昼寝しながら話を聞き、三日目、これはエイミーの通訳をやっている人(申し訳ない。名前を失念してしまった)が担当だったので、ちょっと気になり、はじめから参加してみた。

これが、その地べたに座った感じとか三日目で場がこなれてきたせいもあったりしたのか、すごい、大昔の部族の会議みたいでいい雰囲気だったわけです。で、プロセスワークでは、その場の雰囲気というものを、(いいものであれ悪いものであれ)ものすごく大事にするわけで、ただ、それは雰囲気というくらいだから、各人でどう感じるかは違ってくる。

そんなチュートリアルの最中、ある質問があって、それに答えるために担当の方が、じゃあ、ちょっとこの場の感じを感じてみますけど、と軽く自分の中に集中したんです。したら、「あ、なんか泣きそうになってしまって」と声をつまらせてしまった。それは、ここにこうやってプロセスワークを学ぼうと真剣に聞いていらっしゃる皆さんがいて暖かい気持ちで云々・・・、とあまり明確ではなかったけれど(雰囲気だし)、もう、その場にいた私にも、非っ常〜によくわかる話で、私も、ついついもらい泣きしてしまいそうになっちゃった。

これは、ちょっと、自分でもかつてなかったようなことなんで驚きかつ感動したのでありました。

大体、私は、どういう集団、どういう場にいても、他の人が楽しそうだったり感動していたり怒りまくっていたりしたところで、(んん、なんか違うんだよなあ)であるとか(周りの雰囲気に合わせといたほうがいいか)、というように常に異物感というか異質感というか疎外感を感じてて、場・集団と一体になった感じって中学の時、部活でバスケしてたとき以来、なかったんじゃないか。あ、一回あった。ちょうど十年前の夏に後藤ひろひとの一週間ワークショップの時。あんときも全然シニカルな感じがなく場の雰囲気にとけ込めてた。

で、そのいい雰囲気というのはチュートリアルの時だけじゃなく、二百人前後ほどもいる全員がミンデル夫妻の話を聞くときにもあり、初日が終わった後、(これは最終日、絶対泣く人が出てくるな)と思ってたんです。しらた、案の定、最終日。

最後の最後、会場の椅子を片付け全員で十分間ほど、アボリジニの女性が演奏し歌っているという音楽を聞きながら、各人がワークの中で紡ぎ出したオリジナルな踊りを一斉に踊った(Dance your village's original dance!・・(C)ニューエストモデル)。ちょっとしたクラブ状態。というより、やはり、部族の祭り。私はこの踊りの中でも、(あ!、つまりこういう感覚で世間を渡っていけばいいんだ!)という強い気付きがあって、もっともっと踊っていたかったんだけど、割とあっさり終わってしまって、最後に大きな輪を作ったところで、真ん中あたりに取り残された2人の女性。一人は大泣きに泣いていて(最終日に私の席の前に座ってた人)一人はそれを慰めてハグしてる。

もう、このワークショップではそれ以外でも、美しい!、と言う他どう言ったらいいの?、というシーンがいくつもあったのだけど、これもその一つでした。

と、こういうことばかり書いてたり、猫神様が云々、みたいなこと書いてると、なにやら新興宗教?、とか思われちゃいそうなので、言っときますけど、ミンデルは、いつでも、こういう日本的な穏やかな場で、尊敬されたまなざしの中でばかりワークしてるわけではない、ということなんです。

「紛争の心理学」(講談社新書)を読んでもらえればわかると思いますが(これはみなさん是非に読んでもらいたい!)、ベルファストベイルート、テルアビブ、ケープタウンボンベイ、ロサンゼルスの低所得者層居住地域、(うっすらとした記憶なんだけどKKKが絡んだ会議にも出席して非難された、という話もあったはず)、財政的な危機を迎えている企業・・・といった、とんでもない場所での葛藤解決のための会議にも「ファシリテーター」(議事進行役、というより議事促進者、といった感じか)として参加し、時には罵声を浴び、時には大失敗もしたらしい。

今回、この東京に来る前に、オーストラリアで一週間ほど「ワールドワーク」(集団の葛藤解決のためのワーク、というような感じ)の開催があったのだけど、参加者の話によると、このワールドワーク、相当にソフィスティケートされてきていて、東京以上に感動ものだったようです。ああ、なんということだ!英語もできないくせに参加できなかったことを嘆いてしまいたい私。

そのような紛争地に踏み込んでの会議となれば、自ずと、険悪な雰囲気、重苦しい沈黙、激しい怒鳴りあい、という困難の中に身を置かなければならないわけで、テレビ画面や新聞紙面のこっち側から、国際情勢がどうたらこうたら偉そうに話しているコメンテーターやら政治家やらとは、まるで違った活動をしている人なわけです、ミンデル夫妻は。

で、そういう場でさえも、そこにあるのに見過ごされている「雰囲気」を自覚していくこと、ただそれだけで、まったく思いもよらない建設的な方向に話し合いが流れていく、という記録が「紛争の心理学」の中には描かれている(ところでこの本の原題は「Sitting in the fire」炎の中に座す、で、そっちのほうがずっといいと思うんですが皆さんはいかが?)。そこにあるのに気付かれていない感情・雰囲気を感じるためには、あえて激しい感情をはき出すことで、場がさらなる混乱に陥ることをも恐れない。いや、もちろん、恐れもあるのだけど、その恐れも、きちんと自覚していく。

・・・

でも、こういうの、活字で読んだだけだと、普段の私みたいに、え〜?空々しくない?、となってしまうかもしれなさそうなところあるからなあ・・・


今回のワークショップでは三日間で二回づつ計六回のワークをもったのだけど、そのそれぞれでパートナーを組み、最後だけは3人でやったから、都合7人の見知らぬ人とコンタクトをとったわけです。で、そのそれぞれ、まったく見知らぬ人とのワークを十数分もしているうち、普通、こんな深いこと他人に話さないよ、というような部分が、我知らずあぶり出されてきて、それって嫌なことかというと、そうじゃなく、もう、ものすごく受け入れてもらった、という感じがあった。

前にどこかで書いたかもしれませんが、私がこういう場で、妙に深刻で重たいことをさらけ出していたのは、どこかで・・というか、完全に、そういうところを受け止めて欲しい、というか、ぶっちゃけて言うと、甘えたい願望があったんでしょう。なんとなく「理解」はしてたけど、身に沁みては感じてなかった。というか、感じないようにしてた。

よく考えてみると、いまいち、人と、とりわけ女性と向き合うことに躊躇を感じてたのは、そういう甘えたい願望を抑圧してて、でも、妙に深刻なところをさらけ出すことで、受け止めて受け止めて光線を無意識にさらけ出し、それなりに親しくならない限りそんなもの普通の人は受け止める必要ないし腰が引けちゃうわけだから、そのフィードバックをこちらでも感じてしまって、さらに関係はぎこちなくなる、とそんなところがあったんじゃないか。

ふと、思い出したのだけど、以前女の子に(ぎゅ〜っと抱きしめて欲しい!)と強く思ったのに、言えなかったこと思い出した。アホやw。

まあ、そういうね、やや深い部分、普段の生活から見ればドロドロしたところを、まったく見慣れた当然のものとして扱うすべ、というか姿勢(エイミーの言葉で言えばメタスキル)がこのワークにはあった。いや、場にあったというべきか、ミンデル夫妻にあったというべきか。それはどうでもいいか。とにかく、はき出したものを受け止められた。受け止めてもらえた上、思わぬ知恵まで引っ張り出してきてくれた。それは意識的になされたものではなく、絵を描くことや踊ること、関係性の中にいるその場の力を感じてみること、といったような、あくまで創造的なところからわき上がってきたものだった。

その知恵はその場の力から出てきたものだった。

私とワークしたある女の子は、(これはちょっと止めといたほうがいいじゃないの)というような、かなり激しい感情が透けて見えたため、こちらの腰が引けてしまったのだけど、その「腰が引けてしまった感じ」そのものに、また、多大なる知恵が潜んでいた。まさに、ユーリカ!(相手と私のプライベートなことになるので詳しくは書けませんが)。

そして、おそらく、対立する、だけではない、混乱しきった地域の問題を解決するためには、まさに、この場の力(雰囲気といってもいいし、ミンデルっぽくエッセンスと言ってもいいだろう)、場の中にあるもの、にこそ目を向ける、自覚することこそが必要であり、その自覚のためには、まずは「自分」という場の中に、なにがあるのか自覚できていなければいけない。

甘えたい気持ちがあるのに、それを見ないようにしていたら、甘ったれた人間に対してひどく冷たい対応をし(私には確かにそういうところがある)、集団の中でそういう人の声を抑圧するようになるだろう。

内側の問題は外側の問題だし、外側の問題は内側の問題だ、ということ。

なんだか、ワークしてたときのハイテンションが戻ってきた感じがあったけど、今、やや下降してきた。

今日は、限界なのかな。ということで支離滅裂に続きは明日(思いついたら今日書くかも)。