身体操作のための覚え書き 1

・「リラックス」より「スペースを作る」という言葉のほうが、より調和した楽な感覚が得やすいように思える。

・甲野先生経由で知った「正中線」というのは、アレクサンダーの言う「プライマリー・コントロール(抗重力筋肉組織の微妙な調整作用)」と、ほぼ同じ意味なのではないか。今までの私の感覚では、「頭の重さを脊髄から股関節を通って抜けた膝と接地感の薄い足裏へ通す」ことができている感覚。身体を起こし始めた赤ん坊は変な意識をしなくとも「プライマリーコントロール」の状態、「正中線」を出した動きをしている。

・自分の場合、股関節の力みが全体のバランスを崩しているように思える。上半身を前方に傾けようとするときに、どうしても、「腰」と呼ばれる部分から曲げようとするのだが、そうすることが、さらなる他部位への緊張を呼び込んでいる。反っくり返った例の姿勢を正そうとしたときも、妙に、背後の筋肉に緊張がはしっているところがある。股関節から曲がる感覚が、まだ鈍い。

・「なにかをしよう」と思うと、どうしても「起こり」が出てくる。黒田鉄山先生は、弟子に対している時、相手が動いてもいないのに、「はい、ここダメ」「ここから動こうとしてる」みたいにパシパシ竹刀で指摘しているらしいけど、アレクサンダーの教師だと、その時見ているのは「首」の動きということになるのではないか?その動きは、どこから始まる、ということではなく、まさに、「習慣」つまり機械的にそうなってしまっているということ。

機械的に動いているときの「私」は、この世界でなにが起こっているのか完全に見失っている。たった一つ肝心なのは、今、まさに、ここで、なにが起こっているのか常に「自覚」できているということ。あるいは、「私」がなにをしているのか、ということを「自覚」すること。それが「プロセス指向」ということだろう。それはとりもなおさず、『「することをしない」ことする』ことをしない・・((以下無限)ということに他ならない。

・自由を意識できている、というのは、「選択肢」を意識できている、ということ。意識というのが「何かを止める」仕事をしているのだとすれば、「なにかをする」ことを思いとどまること、思いとどまれること、が、意識の仕事であり、自由、の感覚の元でもあろう。(http://d.hatena.ne.jp/fkj/20051227

・身体にまかせる、まかせることができる、というのは、意識をはずした環境と身体によるプライマリーなコントロールにまかせる、ということで、それは、この世界の物理的法則に従うということになり、ほとんど「運命論」とでも言うより他ないことにもなろうが、「自覚」は、それを「しない」こともできる。というか、「しない」ことしかできない。甲野先生のひたすら追求してきたという「すべては自由であり、かつ、運命である」というのは、ここらあたりに悪くない「形容」があるように思える(それは「答え」ではない)。