身体操作のための覚え書き 2

・「壁」あるいは「人」を、押そう、と思ったとします。その際、“実際”“現実”の壁なり人なりを、押そう、と思った時には、視覚的にはもちろんのこと、「触覚的」にも、押す--押される、という双方にとっての接触点が必然的に要請される。

さて、私が甲野善紀先生と、そういった、「押し合い」、の手合わせをさせていただいた時、体格的にも力的(筋力的)にも、どう見たって明らかに私のほうが上回っていたにも関わらず、いとも簡単に押し込まれてしまったり体勢を崩されてしまったりしたのだけど、その時の率直な感想をと言えば、(あ、なんかズルイなあ、こっちの準備もできてないうちに・・)、というような思いばかりがあった訳です。

しかし、よく考えてみると、どれほど体力的に優位にあったとしても、絶対的に、「押し込まれない」という準備は、できない、としか思えなくなってきた。

簡単な想像をしてみていただければ分かると思います。

たとえば、今、一番身近にある、壁なり床なり、普通に考えて動くはずのないものを押してみます。その際の筋肉の動きをとくと味わってください。

次に、「想像上」で壁なり床なりがあると思って、その壁(想像上の)なり、床(想像上の)を押してみますと、その時の筋肉の動きは、“実際”の壁なり床なりを押してみた時の筋肉の動きとは、どうやったって、違ってくる。“実際”の壁なり床なりを押している時のような力を込めることはできない。

ところが、甲野先生と、手合わせしていただいた時の感触というのは、こちらが全然構えていない隙に、ぐにゃぐにゃ、と押し込まれてしまっていて、(いやいやいやいやいや、ちょっと今のは無しですよ、ずるいなあ・・)、という風にしか思えないように体勢を崩されてしまっていた。

そんな風にやられてしまうのは、「いつもの」がっちりと力を込めて構えた姿勢を「とる前」に押し込まれているのだから、きちんと構えてさえいれば押し込まれることはない、と思って構えていたからやられるはずないと思っていたのだけど、結局のところ、ぐにゃぐにゃ、と押されてしまう。

それって、もしかして、こんな感じなんかな、と図説してみますと、

<①>
         |
         |
−−−−→ × ←−−−−
         |
         |


左からある力で押されたとすれば、右から同じ力で押し返せば、その接触点で動きはおこらない。(左右、どちらからの力が強ければ、その力が押す方向へと接触点は動くだろう)

<②>

         |
        
(−−−→)
        
         |

実際には、そこになにも無いのに、なにかあると思って力を込めたとしても、実際に押し込まれているようには力は込められない。要するに、そこには何もない。

<③>


         | ←

  (−−−→) |

         | ←

実際には何もして無いのに、体格や筋力の見た目で押されるはずがないと思っている方は、なんだか分からないまま(たいした力も込められないまま)、押し崩されてしまう。


普通、押し合いへし合い、となれば、手のひらなり肩と肩なり、ぶつかり合う「点」が双方に感じられているはずなんだが、甲野先生の場合、その「点」が無いまま、こちら側に押し込んでくるもんだから、(いやいやいやいやいや、いまタイミングはずしたでしょ、ズルイなあ)、という風にしか感じられない。こっちがどれほど準備しようと思ったって、なにもないところに力は込められない。なにもないはずなのに、こっちのほうへと押し込んでくる気持ちの悪い人。それが達人w

アレクサンダー・テクニークでは、たとえば、椅子から立ち上がる際にも、なるたけ「立ち上がる」とは思わないように動くことが肝心なことで、それよりも大事なことは、椅子から立つ、であるとか、相手を押し込む、とかしているときに、自分が何をしているのか・自分の身体がどう反応しているのか、ということを自覚することこそが第一に気をつけねばならないことで、うまくできたとかできない、とかは、はっきりいって、どうでもいいことなんである。

要するに、なにを「する」にも、「しない」ようにする、と。まあ、これがどれだけ困難なことか、一度あなたも体験してみたらどうでしょう


・これは、以前、hpで感想を書いた「あっかべぇ一休」というマンガを読んだときにちょっと想像したことなんですが、それは「洞山三頓の棒」という禅の公案が描かれていたところから


・・宋の時代、修業僧の洞山(とうざん)がはじめて師・雲門のところへ参じた時のことだ。師・雲門が問うた。「おまえはどこから来た?」「査渡から参りました」「この夏はどこにいたのだね?」「湖南の報慈寺にいました」「いつそこを出立したのか?」「はい、八月二十五日です」「このうつけ者!!棒を三頓もくれてやりたいところだが棒が汚れるわ!帰れ帰れッ」(とさんざん叩かれ)さてこの修業僧は考えこんでしまいます。「昨日は一睡もできませんでした。私のどこがいけなかったのでしょうか?お教え下さい」「たわけッ、穀つぶしめ。まだそんなことを!長い間修業を積んだだと!?いつまでウロウロしているつもりだァ」「ハッ!・・」この時、洞山はにわかに大悟する。

この、「いつまでウロウロしているつもりだァ」というところに単純にしてなかなか分かりづらい公案への「対応」の仕方があるとは思うのですが、そのへんは各人、お考え下さい。今日書きたかったのは、その時の想像した、たとえば、今、私がカレーを食べたくなったとして、近所のcoco一番館あたりに行くとすると、「私がこの部屋からカレー屋に行く」という能動的な記述になってしまうところを、まずは(カレー屋に行きたい)という方向性があり、あとは、身体と世界の有り様が、「私」と呼ばれる者のところへとカレー屋を近づける、という風に考えることこそが「天上天下 唯我独尊」ということに他ならないんじゃないか。達人の言う「身体に任せる」感覚や、アレクサンダーの「プライマリーコントロール」ってそういうことなんじゃないの?」という感じがあったりする。

んん・・・、思いの外、上手く書けない・・・