エリザベス・キューブラー・ロス

終末期医療の確立に決定的な一打を放ったといわれる名著「死の瞬間」の著者、キューブラー・ロス博士のドキュメント番組を見た。

四十年に渡る活動を終え、隠遁生活に入るやいなや、脳卒中で半身不随になり、以後十年の長きに渡って、人の世話なしには生きられなくなったロス博士は、神に対して、「あなたはヒトラーか」と嘆いたという。

おびただしい数の末期患者と対話し手を握り看取ってきた博士。あんなに立派なことを言っていたくせに自分のことになったらそうまで怒るか、とマスコミには叩かれたらしい。

しかし、死後の生にまで深入りしていった人が、神に憎悪を表すって、相当なことでしょう。俺は、「ヒトラーかって思った」、ていうの聞いて、ああ、この人は信用できるな、と感じたけどなあ。

なんというか、落ち込んだ時の様相に、この頃、変化があって、普通の人が気にもかけないことにも意味を感じたりして、それがこう、いい方向で行動のほうに繋がっているのは間違いなのだけど、たった一個の否定的な出来事によって、それまでこさえてきた世界の肯定的な意味が、すべてひっくりかえり、その意味の繋がりはそのままに、すべてが自分に対して悪意をもって現れるように整序されていたんだ、ってくらい、全体的な世界の有り様に憎悪を感じるところも出てきてしまって、そういう陽と陰の両極がなにやら尋常でないくらいひらいてしまって、週替わり日替わりでくるくる回ってやってきてます。

で、そんな大したことがおこっているわけじゃない俺でさえそうなんだから、キューブラー・ロスの思いたるや、ヒトラー、程度の形容では言い切れないものだったんじゃなかろうか。またもや、どうしてもヨブのことを思い出してしまう。

そして、それでもやっぱり、そういう経験は、必要とされているとしか感じられない。

博士は言います。「人間には二つの大事なことがあって、一つは人に愛を与えること。もう一つは愛を受け入れること。私は、愛を受け入れることが、どうにも嫌い」

そう。もう、嫌えば嫌うほど、「それ」はどうしようもなく自分の人生に付きまとう。無いことにしていたとしても、博士のように、やっと人の世話を辞めたところで、自分が世話を受けなきゃ生きていけなくなるような皮肉なことになってしまう。

でも、それは生きられていない可能性でもあるわけだ。

なにかをどれほど厭おうと、というか、厭おうもの・嫌うものにこそ当人にとって生きられていない側面があり、それからは決して逃げられない。逃げれば逃げるほど、破滅的な形で、また、恐ろしく皮肉な形で襲ってくることになる。

この頃、もっと真摯に宗教について考えなきゃいけないな、と思う。それは、既成のものなんかじゃさらさらなくて、というか、本来、それぞれの人はそれぞれに「信仰」を立ち上げておくべきなんじゃなかろうか。真の宗教は党派には走らない。

しばらく縁のありそうな仏像というか小物でもいいし絵画でもいいし、トーテムというか、祈りの対象の象徴・・・というか、対象そのものであり内的な世界そのもの(神的なもの、と言ってもいい)でもあり、そんなものを探そうかなあ探したいなあ、などと思ってます。

↓このへんのモノなんか、かなり、ぐっとくるとこがある。
http://takochu.com/watabe/