つつじ 花摘み 太極図

東京30℃!(まであと一歩)

夕方、Tシャツで散歩した。

目白駅から池袋駅に向かうJRの線路は、昔、川があったところにでも通したのか、少々、低まったところを走っていて、その斜めに下った縁の部分につつじが植わっているところがある。

花を愛でる習慣というのは、酒を飲むのに桜を見るくらいでそうそうない私ではあるけれど、なんの花が好きかと問われたら、どうも、「つつじ」と答えるような気がしてきた。

実家がある県の県花がつつじだったということもあるのか、比較的近所(田舎だから近所といってもそれ相応に遠い)の公園には、まさに「つつじヶ丘」と言いたくなるようなつつじのびっしり植えられたところがあって、そのつつじヶ丘の中には人が歩けるような、ちょっとした小道が迷路ではないんだけれど迷路的にくねくねと通されていたりしていて、子供心にその中を走り回ったりするのが楽しかった覚えがある。

だいたいこのゴールデンウィーク時期に最盛期を迎えているためか、なにか、その、新学期を迎えて一月たち、ちょっと息入れするようなほっとする感覚とつつじの記憶が一緒になっているようなところもある。

家のあるすぐ近くの山にも、自然のつつじが生えていて、よくその花を食べたりもした(笑)。や、結構、おいしいんですよ。

ちょうど同じ頃には、りんごの花も咲いていたはずで、中学くらいまでは春を感じるのは、桜ではなくつつじやりんごの花だったような気もする。というか、夏休みまで祝日がない暗黒の(おおげさ)日々が続く前の一段落、みたいな意味がゴールデンウィークにはあったから、そのへんの感情と複雑に絡み合っていたのかもしれない。

今から思うと、りんごの花の、押しつけがましさの無い感じがいいように思うのだけど、実家にいたときは、花摘みといって、たくさんついた花を適度に摘んで、残した実に栄養を集中させるための作業を手伝わされたこともあって、りんごの花にいい思い出はあんまりない。

と、まあ、似合わないこと書いてしまってますが、以前どっかで書いたと思うんですけど、最近、気分が落っこちると、世界全部が悪意を持って自分にあれこれ出来事を配置しているように感じてりしてたのが、この2、3日、ちょっと自分でもわけがわからないくらい、非常に、鷹揚で愛にあふれた気分(笑)になってたりするんです。どれくらい鷹揚かと言うと、細木数子も許せてしまうくらい。細木ファンの方、ごめんなさい。

それと関係あるのかないのか、まあ、あるとしか思えないのだけど、ちょっと、この一週間ばかり、「眼」の使い方を意識的に変えていて、書くと長くなるので書きませんが、簡単に言うと、「眼はどこにいてもいい」と思うようにしたところ、視覚だけでなく、ありとあらゆる感覚に、妙な変化が起きてきたのでした。

そうして、その感覚やらアレクサンダーの「居てもいい」という感覚やら対人心理やら年初に述べた課題やらが、いつぞや書いたフォーカシングの理屈へと思考を再帰させ、いろんなものを新たな観点から見えるようにしてくれることは、また、ハイな気分を上昇させてくれ、なおかつ、この先、再び暗い穴へと落ち込んでいくことにも開かれているため、無理にこのいい感覚をキープしなくてもいい、という余裕があったりして、それが、実に写真の太極図を思い出さずにはいられないのでした。

・・・・。ここに書いた分量の倍くらいかけて丁寧にこのへんの感覚について書いておきたい気もあるのだけど、めんどくさいからこれでいいや。今、なんか、気分いいし