今日のハルカ 第七回(ハルカ失敗編)

あと二月とちょっとでこのドラマ終わってしまうかと思うと、もう、すでに喪失感を感じてしまうんですが病気ですかそうですかありがとうさようなら。ということで久々の今日のハルカ。

晦日更新のときにも書いた通り、このドラマ、私の実生活と妙に連動してるようなとこあって、今日もまたびっくり。

大阪から湯布院に帰ってきたハルカは、就職した観光事務所の最初の仕事として「湯布院音楽祭」をまかされることになりました。大阪時代のツテを利用し、集客力の見込める有名音楽家などにもノーギャラで出演してもらったりと辣腕をふるうハルカ。かつてないほどの観光客を集め音楽祭は大成功、と思いきや、老賢人に言われてしまう。「町の人間が楽しめない祭りは町の祭りじゃあない」。

例年を超える客の多さに振り回された地元の人たちの多くは、音楽を聴くことさえできなかったという。

大阪での経験から「自分は観光のプロ」などと驕っていたのだ、と落ち込むハルカにお父さん、こんなことを言いました。

「会社にいくと、失敗するなするなって言われるけど、今のハルカの仕事はそうじゃない。どちらかというと、失敗してもいいから思い切りがんばれ、ってみんなそう思ってるんだ。うちだってレストラン失敗してからのほうが、皆よけいやさしかったでしょ。だから失敗してもこの場所に残れた。そしてこの町の人間だと、少しずつ認められた」

失敗してから皆よけいやさしくなった、というのは、昨12月2日に書いた「腐臭」のようなものも感じてしまうのだけど(実際そういう面もあると思う)、とにかく、どこかの家(http://d.hatena.ne.jp/fkj/20060106)のようには失敗をあざ笑ったり叱責したりしない鷹揚な環境、失敗を受け入れる余裕・余地、というものが人には絶対的に必要なわけです。

赤ん坊がむずかって手足をばたつかせ親の顔を蹴ったりしたとき、親が怒ってその赤ん坊を放り出したりしたら育つもんも育たないのといっしょで。

みたいなことを、昨年末、天皇誕生日のとき、ある会合でしゃべったりもしました。それは、11月に参加したフォーカシングのワークショップを主催している人たちが、そのワークショップの次なる展開を目指して男性参加者の意見を聞きたい、と集められた会合で、私以外には、元メーカー勤務現大学講師、であるとか、現メーカーの部長さん、だかなんだか、そういう立派な人ばっかりがいたところでたいそう緊張したんですけれども、なにやら、マニュアルにある以上のことをしない若い人が増えて云々、みたいな話になったとき、失敗を許さなくなってる、許せなくなってる社会的な余裕の無さがあるんじゃないか、会社でもなんでもそうだけど、そういう鷹揚さがない限り、創造性のあるもの、なんて生まれないでしょう、とか偉そうにしゃべりました。

なんのマニュアルも持たない赤ん坊は、不快を発散させるためにとにかく手足をばたつかせるくらいしかできない。環境(養育者)はそれに答えたり答えなかったりすることで、赤ん坊には、こういうときにはこうする、という行動様式が生まれる。ひとつの足掻き(行動)は、良かれ悪しかれ環境に影響を与え、本人にもレスポンスとして返ってくることで、その足掻きと環境の変化による快不快のつながりをつかむようになる。「創造性」とかいうものは、こういうとにかくやってみるしかないという足掻きの中からしか生まれないもんでしょう。

それを、親(や教師や上司や・・・)が、アゴを蹴られた(誰々を泣かせた、損害を出した・・・)云々、と、簡単に放り出すようなマネをすれば、自発的になにかをしようなんて気はおこらなくなるのも当然のこと。

さて、では、そのような鷹揚な環境というものは、どのように設えることができるのか。そのミニチュアモデルとしての心理療法というものを考えている真っ最中。それは、おそらく、どのような場所でも応用の利くものになるはずだ。鷹揚なだけに。なんちゃって