良いにつけ悪いにつけ世界は変わる

今週火曜、お花で有名な某団体の持ってるビルに友人の仕事の手伝いに行ったときのこと。現場の事情で夕方の一時間弱くらい、待機をせにゃならなくなった。

そのビルの1フロアを改装するための仕事で、およそ50坪ほどのそのフロアで、最近はまっているとある本を読みつつ仕事が始められるのを待っていると、どうにもこうにも、(ああ、なんか、このゆるい感じ、気持ちいいなあ)と思えてしまったんですな。

私に仕事を頼んできた友人も含め、仕事関係者がもう2、3人、そのだだっ広いフロアの中をうろうろしていたり、軽い会話をしていたり、その場をあえて形容してみるならば、「静謐」とでも言いたい感じが漂っておったのです。

そのフロアの外壁は、畳一畳くらいのはめ殺しのおおきな窓が50cm間隔くらいで並んでて、ほとんどの窓にブラインドが下がってた。それが、たまたま私の視線のすぐ前のところだけが全開になって外の風景が見えていて、夕日の色に微妙に染まった向こうのほうのビルや、風に煽られる街路樹、かすかに小さく動くクレーンの人工的な回転、等々、が、実に立派な一幅の絵画に見えた。その窓の右隣はブラインドで隠されていて、でもそのブラインドは、窓の下辺から十センチくらい上までの長さしかなく、要するにそのブラインドの閉まった窓は、下の方のわずかな横長のフレームで外の様子が見えるようになっておる。その風景もまた味わいがあるものだったのだけど、どういうわけか、その隣の窓のブラインドは、ちょうど、窓から見える風景の半分を切るような開き方をしていていたわけです。

はじめに書いたブラインドの「全開の窓」から、右並びで「全閉(でも下がわずかに見えている)の窓」「半開の窓」、と並んでいて、全開の窓の風景だけでも結構、おお!、と思えたところに、そういう三幅の連作の絵画が並んでいるようにも見え、それが、実に、心に沁みちゃったんです。

で、私がいた場所では、なにか、空調のファンでも回る音なのか、実に単調な音が頭上から聞こえていて、それは、ものすごく微妙に音調を変えたりしておって、(これってすげーミニマル)と音にも快感があったり、時に、窓の外で強い風がぴう〜というトッピングを与え、でも室内だけに限ってみると、実に静謐、という音環境にも笑ってしまうくらい気持ちのいいところがあった。

読んでいた本にも泣きそうな感慨があったりして、まあ、大げさに言うと、「なんて奇跡的な時間なんだ」、みたいな思いもありつつ、でも、まもなく仕事を始めなきゃならない、という限定された感覚が、寒い朝に布団から出たくないけど出なきゃならない幸福な時間を思い出させてくれました。

思えば、(今って、生きてきた中で一番幸福な時間かも)、っていう時間って、実に取るに足らない(と思われるだろう)時ばかりという気がして、でも、それって、その瞬間、確実に終わるということがわかっている時なんですよね。仕事だあ〜、もう布団から出なきゃ〜、みたいな。

というようなことを書こうかな、と思いつつ、別に、こんな感覚他人に理解されるわけねーしな、と日記にも書かずにいた、本日つい今し方、現在、私の東京での生活の基盤の半分以上を提供してくれた会社の社長さんが亡くなられたとの連絡を受けて、火曜の幸福な感覚について書きたくなっちゃいました。

2002年までは、ほとんど生活の九割九分を頼っていたその会社から離れたのは、自分でちょっと試したいことがあったのと、もう一つ、今日亡くなった社長がいなくなれば(その時は健康に動いていたけど私的にはいつ逝っちゃってもおかしくないと思ってた)、この会社自体、おそらく空中分解だろうな、という危惧もいくぶんかあって、それが、私もちょっと(かなり)生き方を変えようというこの時期に亡くなられたという話を聞いて、・・・・・、もうやめます。

たぶん、絶対、この妙な符合する感覚は理解されないと思う。

でも、この仕事丸投げした友人は、今ごろ、気が気じゃないだろうなあ。