他人を利用する、ということについて(今日のハルカ 第6.5回)

昨日書いたばかりのハルカのお父さん。
本日の放送では、娘の理想化とそれを利用したかりそめのいい気分からの解放and現実直視(自己嫌悪)、いわゆるワーキング・スルー(徹底操作)を体験し、俄然、おどおどした演出のなくなった、素の、身の丈にあった自然な振る舞いとなっておりました。

ほんとに、ほんと、ここのドラマのスタッフ、すごいですよ。

「共犯者」ハルカから、はっきりとダメ出しされたお父さんは、農作物を育てる、という行為に自分のアイデンテティを見出し、失敗しつつも学習していく。満足な作物をつくれているわけではなけけれど、その先には、自家製農作物によるレストランの再建、という夢まで見れるようになってきた。

ここからは私の個人的なことなんですが、まあ、ここ最近、私がしでかしたある行為について、間接的な批評を受けてしまい、結構、へこんでいたところで、そんなこと言うのは、言う方に問題があるからでしょう、と、我が身を正当化するようなことばかり考えて保身を図っていたのだけど、よーっく考えてみると、自分にとって重要だった人間関係って、どういう訳か、なんとなーく切れてしまうということが多くて、そういう結果となっていた理由というのが、もう、絶対、ハルカの父的な、いい気分、を求めてた自分があって、そういう求めに応じさせるような実に巧妙な操作をしていたということに思い至り、愕然としてしまったのでした。

その操作というものは「共犯者」がいたからこその操作ではあったのだけど(要するに自分にとって都合のいい人間を「重要」と思っていただけのことだったということ)。

私の場合、そんじょそこらの他人より、それなりに“正確”な自己分析が出来ている、と思っていたので、(あ、あの人も自分がいい気になるために利用していた)(あの人もそうだ)・・・と、いまさら、人からの指摘(直接的ではないけれど)で思い至ったのには、かなりなショックがありました。

まあ、なんとも巧妙繊細な機能の仕方をしていて、それだけ(巧妙繊細)、ぜんぜん見えにくいまま自分の本質を構成していたのだと思うと、ますます、今、自覚できていない「傾向」に対して恐怖を覚えるところがある。

思えば、自分の知らなかった部分についての自覚、というものには、常にショックがつきもので、そういう、自分にとってキツイ体験にこそある種の覚醒が促されるはずと思っていたはずのわたしではあるのだけど、この先、これ以上のショックがあるかと思うと、もう、開き直って、これでいいじゃねーか、と言ってしまうか、サハラ砂漠あたりにでも身を隠したいところなんだけど、たぶん、それは、許されていない、という感じはあったりします。突発的になにするかわかんないけど。

人と人との間なんて、利用し利用されることでつながりを生んではいるのだろうけれど、知らず知らず、というか、薄々感ずいているところもありつつというのが最悪なんだけど、そうして他人を利用してばかりいた、というのには、なんだか辟易してしまうところがあるし、そういうことをここで書くことが、もう欺瞞街道まっしぐらであるのは間違いない。

でも、かつてhpを閉鎖したようには、ここは止めない。

そんなはっきりとした結論は出さない。

欺瞞、矛盾、逆説、わからなさ、・・・そういう、不愉快な立場に留まることが、私の「師匠」たちの在り様だと思うから。

でも、直接に触れられる師匠というものなく、この先やっていけるのか、かなり不安なところではある。

ああああ、うっとうしい。