今日のハルカ 第五回(恋愛篇)

こういうこと書くのはあまりに無粋で朴念仁な振る舞いにも思えたのだけど、わたしのコアな部分がそれを書けと言うので書きます。たぶん、相当長くなるはず。でも、これまでで一番読んでもらいたいって気もする。

前回、ちらりとお話ししましたがハルカは現在、だめんず(ちょっと頼りないダメ男)君にほれております。

だめんずとは湯布院での幼馴染、倉田正巳くん(20歳)。住む所をなくして、現在ハルカとハルカの母とハルカの母の恋人が一緒に暮らすマンションに転がり込んでいる。

正巳の父親は湯布院の名士でもある旅館経営者で、正巳10歳の時に、30歳年下の嫁をとった。

いずれ旅館を継がせようと思いつつ今のうちしかないから外で遊んできなさい、と父から金を渡され家から放り出された正巳であったが、しばらくすると実家と音信を絶つ。大阪にいたところ、偶然ハルカと再会。どうして実家と連絡をとらないのか、と問えば、鬼婆(継母)がうるさい、地元にいたきりでは父親を越えられない、もっと大きなことしたいので旅館を継ぐのは嫌、等々、地に足のつかない誇大な希望をとうとうと語る。なんの努力をするでもなく、いいかげんな仕事っぷりで住み込みの仕事まで失ったくせに。

そんな正巳ではあったが、長年「母役」をこなしてきたハルカにとって、これ以上ないというくらい「世話して」あげたい存在として、どんどん正巳のことが気になっていく。

ところが、正巳が大阪にいたのは、ハワイで知り合った亜矢という女性を追いかけてきてのことらしく、ハルカは、亜矢と正巳が上手くいくように手伝いまでしてしまう。Oh,my God!。正巳に対してまったくその気のない亜矢ではあったが、ハルカの熱心なお願いもあって正巳とのデートを了承。正巳を好きだという気持ちに気付いたハルカの胸には、いよいよ複雑な感情が湧き上がる。

ある夜、亜矢とのデートから帰ってきた正巳は、デート失敗した、と自棄酒を飲んでいた。それに対して励ましたりしていたハルカであったが、雰囲気に押し流され、ついついキスをしてしまう。ファーストキスの興奮に恥ずかしさにうれしさに「しまった」という思いに・・・あれやこれやわけのわからない感情に転げまわるハルカ。仕事場でも、結婚したら倉田ハルカになって旅館の女将としてバリバリ働いて、と妄想を全開。

そんなハルカに正巳は言う。

お前のことは好き。でも亜矢さんのことがもっともっと好き。お前は二番目に好き、いや、三番目かな。いやいや、俺はまだ二十歳だからまだわからんけど、とにかく五番目くらいには入る。だから、こないだはゴメン。あのチューは勢いだった・・・

はじめに言われた「お前のことが好き」で、パッ、と輝いた表情が、見る見るうちに歪んでいくハルカ。それでも正巳が話しを終える前にかぶせて、あれは私も勢いだった、別になんとも思ってない、と答える。そうだったんだ、それはよかった、と喜ぶ正巳と、泣きそうになりながらもそれを堪えるハルカ・・・

人間関係を取り結ぶ最も基本的な型はなにかと言えば、母と子、という風になるだろう。生きていく上でなんの力も持たない子は母(あるいは他の養育者)の「世話」を受けなければ生きていけない。だから、母と子、というより、世話する者と世話される者、という形が人間関係の基底にはある。

「世話される」ばかりだった子も、いずれは「世話する」者(親)になり、大病を患いでもすれば「世話する」者も「世話される」者となるように、普通、大人と言われる人々は、「世話をし世話される」間を行き来する。

さて、親子の間の「世話をし世話される」関係というものは、かならず親が世話する側になるというわけではない。例えばハルカは、店を潰し貧乏になった頼りない父親を助け妹の面倒を見、家事の手伝いをし、励ましの「世話」まですることで、家の安定(つまり自己の安心)を得る。そうすることで安心を得ることを覚えた人にとって、なんでも一人でバリバリこなし他人の「世話」なんか受けなくてもやっていける人は、何かを一緒にするパートナーとしては落ち着けない感じを持つだろう。だめんずにはまる人、というのはこういうこと。

臨床心理士高石浩一氏は、このように「世話する」ことでパートナーから利益(安心)を得ようとすることを、マゾヒスティック・コントロールと呼ぶ。ハルカの他、典型的な話として「鶴女房」(亭主のために自分の羽をむしり取ることまでする)。

逆に、頼りなさ心もとなさ無力さをかもし出して、他者を「世話させる」ように仕向けることを、ナルシスティック・コントロールと名付ける。

マゾヒスティック・コントロールを繰り出すメカニズムは上記した通りだが、ナルシスティック・コントロールとはどういうことを言うのか。

ここで正巳についてのエピソードが役にたつ(このエピソードの意味に気付いたときには、なんとまあ巧妙なものか、と心底驚いた)。

彼が小学生の時分、若い継母が家に入ったことは先に書いた。この継母は、若いなりにも努力して、正巳の「本当」の母親になるように甲斐甲斐しく「世話」をする。ある日、その一環として、正巳をお風呂にさそう。「いつかお母さんと呼んでくれたらいいなあ」。その時、正巳は風呂の中でのぼせ上がり救急車で運ばれ、父親からもさんざん笑われたという。

エピソードとして語られたときには、「そりゃあ、さぞかし色っぽいことだろうねえ」「ええ、ハルカよりずっとね」ワハハハハ、と笑い話になっていたけれど、この風呂のエピソードは、正巳のハルカに対する無神経な物言いの原点が完全に含まれているように思われる。

要するに、小学生の正巳は「世話」してくれる継母のことを、母としてではなく異性として好きだったということ。ところが継母は、正巳のその方面の感情には一顧だにせず、ひたすら母として世話し続け、あげくのはてには、風呂にまでいっしょに入ってさんざん、正巳のその感情を高ぶらせてさせておきながら「お母さんと呼んでほしい」などと言って困惑させる。行き場のなくなった正巳の感情は、素裸でのぼせ上がって救急車で運ばれるという結果につながり、さらに悪いことには、その、自分の好きな継母の、女としての愛情を一身に受けている父親は、のぼせあがった息子のことを大笑いしたという。

10歳の少年のそんな経験が、今、どうして笑い話になるのか。どう考えたって、そんな経験は屈辱、恥辱ではないか。本来、そんな経験を呼び起こした者に対しては怒りを顕にするはずなのではないか。

しかし、正巳は父のことも継母のことも好きだった。自分がなにをやろうとも、継母からの女としての愛情を求める気持ちは(父にも継母にも)完全無視され、そんな中でもうまく安心を得ようと思うのなら、自分からもある気持ちの部分を完全閉鎖し、「子」になることを徹底し、「世話する」両親に身を任せ「世話される」より他ないだろう。

こうしてナルシスティックに他人の「世話」を引き出すように仕向ける傾向性ができあがる。

正巳のそんな部分に反応した「マゾヒスティック」なハルカは、しかし、正巳の愛情を得ることはできない。正巳は、世話してくれる者に「母」(親)は感じるが、性は感じない。なぜなら、世話してくれる者に性を感じてしまったら、またもや再び、あの恥辱がよみがえってくるかもしれないから。正巳の、また一般的にナルシストの、他人の感情・気持ちに対する奇妙な無関心、無神経は、そうした恥辱の恐怖と表裏一体であり、妙に誇大なところも「何をしても無駄」という無力感と表裏一体である。

だから、ハルカが正巳に異性として好きになってもらいたいのなら、正巳を「世話する」ことをやめなければならない。で、なければ正巳の改心を待つ他ないのだが、その期待は薄い。世話する者の恋愛感情を、選択的に見落とすようにできている正巳には、自分が相手を傷つけていることがわからない。だから、そういう面で怒りをぶつけられると、なんで怒られているかわからない。普通、敵でもない者を傷つければ自分の心が痛むものだが、心を痛めることのできない正巳、あるいはナルシスト、は、ときどき頬を殴られるなどして、外的に痛めつけられる。

正巳がハルカに暴言を言い放ったときもそうであった。たまたま居合わせたハルカの父親は正巳を殴る。

この、ハルカではなく、父親が正巳を殴る、というところもまた、非常に面白い。

母の「世話」、ハルカの「世話」、というのは、赤ん坊におっぱいを与えたりおしめを換えたりするのと同じように、不快を減らして快を高めることをもたらす。竜宮城での浦島はまさに「世話」されっぱなしの歓待を受け、いつの間にやら何百年も時が過ぎてしまっていたように、「世話される者」には時の無情さが欠けてしまう。

一方「世話する者」は、赤ん坊をだっこしてゆさぶっている内、腕が疲れてきてしまうように、時間の経過ごと、様々な不快をやり過ごさなければならない。竜宮で歓待した側も、踊り疲れたりしたことだろう。

「世話する者」の苦労を知らない「世話される者」は、泣き喚き暴れまくって平気で「世話する者」を傷つける。「世話する者」はそれを飲み込む。が、必ずしもそれを消化しきるわけでもない。毎日夜鳴きする赤ん坊には、いかに我慢強い親でも怒りの湧き起こるのを抑えられないだろうし、子どもが暴力を振るえば大声で叱る。乙姫の玉手箱は、そういう自分たちが引き受けてきた時間の無情さをしまいこんだものであった。

さて、ハルカ。ハルカは正巳の無情さに怒りでもって答えるのではなく、飲み込もうとする。飲み込むも、あまりに不快なので、「別になんとも思ってない」と、なかったことにしようとする。が、顔は歪み、全身は硬直して、もはや飲み込んだものの毒が回るにまかせるより他ない。

そこに父親登場。一部始終を聞いていた父親は激怒し正巳を殴る、殴る、殴る。力の抜けるハルカ。力を抜いても飲み込める程度の毒になった、ということだろう。

(殴る、という行動化はともかく)カウンセリングの現場で言われる共感とはこのことに他ならない。考えんでもどういう気持ちかわかる。わかってしまう。

そうしてマゾヒスティックに耐えるハルカの怒りに同一化し怒りを顕にする父親。これこそ、まさに、マゾヒスティック・コントロール!。自らは手を下すことなく、怒りを発散させる方法。

一方、正巳は殴られることで「外的」には痛む。が、翌日の放送でも見られたが、相変わらずハルカの痛みを、申し訳ない、という「内的」な痛みとして感じられない。継母や父が、自分の痛み(恥辱)を感じてくれなかったように。

ハルカや正巳の姿は、現実世界の中で、それほど極端というわけではない。むしろ、程度の違いによって、(性別に関係なく)「鶴女房」か「浦島」タイプとして二分できるのではなかろうか。(私はどちらかと言うと・・・黙っておくことにします)

その点、MEGUMI演ずるところの亜矢が、ハルカに対して、「あんたみたいなタイプ見てるといじめたくなる」と言ったことにも一言言いたくなるところがあるのだが、まあ、あんまり長くなったので今日はこのへんで。