チェルフィッチュ「目的地」

はじめます。友達の出てる、出てるというか主催している、主催っていうのともまた違うかもしれないんですけど、出てる、トークイベントのゲストに出た岡田さんという人が演出している、チェルフィッチュという、劇団?、じゃなくて、ソロ・ユニット?、ということらしいんですけど、岡田さんが一人でお芝居とかするというんじゃないんですけど、岡田さんは作と演出をするんですけど、その人が今、駒場アゴラ劇場っていうところでやってる「目的地」っていう芝居を見た松丸さんという人の話をしまーす。岡田さんは、三十とか、三十二とか、年がまだ、三十五とか、いってたとしてもそんなくらいの今、年が男の、売れっ子演劇人なんですけど、岡田さんは実は、去年、岡田さんは、有名な話なんですけど、岸田戯曲賞っていう有名な賞を取ったんですけど、有名っていうか、同時に取ったのが宮藤官九郎さんという有名な人で、そのー、それで有名な話っていうわけではないんですけど、有名っていうか話題になったんですけど、その芝居のはじまりなんですけど、はじめます。友達の、大学で一緒の前田さんっていう女の子の話をやります。前田さんは、十九とか、ハタチとか、年がまだ、二十一とか、いってたとしてもそんなくらいの今、年が女の子なんですけど、確か、見た目的にもそれでやっぱりそれくらいなんですけど、その前田さんの話をそれではえーとしようと思うんですけど、前田さんは、実はまだ、前田さんは、このときは誰にも人にはまだ言ってなかったんですけど、言えないなあと思ってたんですけど、みたいに、一人の女の人が、舞台に、舞台というか、友達の出てる、出てるっていうか主催してるっていうかトークイベントの会場で、いきなりはじめたんですけど、その会場っていうのは、渋谷のアップリンクというところなんですけど、そこではじめたんですけど、アゴラで見たときも、同じようにはじまったんですけど、今はアップリンクの話をしてるんですけど、そこではじめて観た、観たっていうのは、チェルフィッチュの芝居をはじめて観たっていうことなんですけど、観た、松丸さんは、すごく驚いたらしいんですけど、あ、芝居、はじまってるんだ、みたいに思ったんですけど、だったんですけど、でもアレなんですけど、っていう風にダラダラなかなか要領を得ない話が続くんですけど、その、行きつ戻りつだらだらというか、ぎくしゃくというか、続く話をする女の人が、女の人は役者さんなんですけど、役者さんじゃなかったら誰なんだってことになるんですけど、役者さんが、ダラダラというかぎくしゃくというか続く話に、手をぶらぶら揺らしたり伸びをしてみたり、話、するのといっしょにするんですけど、なんか、こう、それは、ちゃんと、ちゃんとっていうか、なんか、こう、割と話と連動していて、無意味に動いているというわけではないんですけど、普段、人が話すときも割と、そんな風にだらだらなにかしら動きながら話したりしてると思うんですけど、そんな、動かないで話す人もいると思うんですけど、動かないで話す人っていうのは出てないんですけど、舞台だから動いたほうがいいから、いいからというか、舞台なんだから、体があるのに動かないんじゃあ意味がないということだと思うんですけど、それで、岡田さんは、コレオグラファーみたいに言われることもあって振付師のコンテストみたいなものにも出たことがあるらしいんですけど、基本、演出家なんですけど、どうしてこんな演出方法になったのかと言うと、今、ここで書いてるみたいな、みたいな、ってだいぶ違うんですけど、真似てみてるんですけど、こんな言葉を書きたいという言葉のほうが先にあって、それで演出してるうちにそうなったらしいんですけど、さっき要領を得ない、みたいに言ったんですけど、なんの要領を得ないのかと言うと、要するに何が言いたいのか要を得ないというか、

という感じで押し通そうとしたんですけどー、これ、異様に疲れますね。

というのも、この書き方、全然、俺の生理に合ってないもの。生理に合ってないというのは、不快ということじゃなくて、何かを書こうと思って、あるスタイルを選んだときに、割かし書きやすいタイプのものもあると思うんですけどー、この岡田さんスタイルは疲れるんですけどー。

で、「目的地」。この芝居全体が、岡田さんスタイル。方法論と言えば言えるんでしょうけどー、どうも、スタイルといったほうがしっくりくる。

役者の動きの全部が全部、岡田さんのコントロールにあるかと言えば、それは違うようで、稽古の中で、個々の役者の中にある感覚などと折衝しながら詰めていってるところがあるにしろ、それでもやっぱり、全員がある幅で同じスタイルにはまってる。

非常に面白かったのは、ポスト・パフォーマンストークにも出ていらっしゃいました、女優の岩本えりさんが、素になって話すときの動きが、もうほとんど、役の人が憑依しちゃってんじゃないか、ってな動きに見えたところ。それは、元々あった岩本さんの動きが拾われて舞台の中に出てきたのか、チェルフィッチュの舞台に出ることによって憑いちゃってるのか、わからないんだけど、どちらとも判然とは言いかねるように双方相まって、今の岩本さんの身体ができちゃってるんじゃないかな、そうだと面白いな、というようには思います。

岡田さんが言い出したのか、他の人が言い出したのか知らないんですけどー、こう、「お話の内容」に沿った、「お話の内容」には回収されない、台詞回しや身体の動きを、「ノイズ」といい、そこに、これまでの舞台にはない豊穣さを見られたということなんですけど0、当然のことながら、この芝居の中には、その、ノイズの豊穣さは無いわけで、誰にも見捨てられていたようなノイジーな身体から豊穣なお宝を見てとったのは他ならぬ岡田さんであって、そのお宝は、確かに豊穣という言葉が相応しく、お話中心でどういったモノ(動き)どもをそこに放り込めるのかある程度決まっている一般に観られる舞台に引き比べ、桁違いの情報量(岡田さんが「面白い」と見て取ったものの現れとして)を含んでいるのは間違いないのだけど、それは、もうノイズとは呼べない。「面白い」というなんらかのシグナルを受けてしまっているのだし。

その豊穣なノイズが溢れているところはどこなんだ、と言えば、それは「現実」というより他ないところで、その中から、「これは面白い!」と感じたものを拾いあげ、磨き上げ、舞台の上に陳列し、目利きの目にかなった、ということで、岡田さんは、言ってみると、希代の発明家と言えるんではないでしょうか。

現実のはらみ持つ豊穣なノイズから、何をお宝(シグナル)として見出すか。それは、舞台、音楽、映画、小説、写真・・その他創作活動にとどまらない、「ある人」が「現実」をどう見るのか、という生き方の問題と深く関わってくるように思う。

チェルフィッチュの舞台が面白いのは、そういう岡田さんの生き方自体(生きている身体)のスタイルから見出したものから、「現実」、あるいは、「世界」の拓けが垣間見えるところにあるんではないでしょうか。

これはちょっと余談なんですけどウォー、大谷さんのフランス革命のときに「会話をキャッチボールに譬えるのは適当ではない」みたいなことを岡田さんが言ってらっしゃったような覚えがあるんですけどヌォー、この手の慣用的な表現にはなかなか馬鹿にできないところがあって、あの時、確か、キャッチボールじゃなくって、格闘技といったほうがふさわしい、と言ってたような気がするんですこえどぅ〜、会話って、岡田さんも言われていた(と思われる)ように、なにか有意なメッセージのやりとりをするだけじゃなく、「目的地」最後のところ、宮崎と同僚のやりとりのように、かみ合ってないんだけど、なんか、成立してる、というものも確かに「会話」で、ただ、その時、「言葉」以外の、音調だとか動きだとか間だとかいったものも含めて「会話」で、だから格闘技と譬えたんだと思うんでれすくわどろ〜、思うに、会話をキャッチボールと譬えるのは、そういう、やりとりされる言葉に必然的に含まれてしまう「意味」や「音調」や身体の動きを捨象したところの「声」という同じもの(ボール)のやりとりをこそ「会話」と抽象したからこそ、そういう慣用的語句になったということではないでしょうか。

やりとりされる言葉に、どういう「意味」があるのか、どういう風に言うのか、どんな顔・姿勢・動きで言うのか、ということは度外視して、ただ単に「声」という同じものをやりとりすることが、会話。「意味」をはじめ「調子」「表情」「姿勢」「動き」・・・をすべてひっくるめたやりとりを、コミュニケーション、と。

そんなチェルフィッチュ「目的地」は駒場アゴラ劇場で15日(火曜)まで絶賛公演中であります。みなさまふるって演劇の最先端を観に行きましょう。