ドラマ『女王の教室』

昨日書いてる途中に思いついたこと。

今年、7〜9月期ドラマでたいへん話題になった「女王の教室」なんですが、ムカムカしながら、実は全部見てしまいました。これが、もう、超ド級の欺瞞ドラマ。ド級DQN)すぎて目が離せませんでしたよ。

「この物語は、悪魔のような鬼教師に、小学六年の子供たちが闘いを挑んだ、一年間の記録」だなんてうたってましたが、そんな鬼教師はほんとのところ子供思いの良い先生だったのです、という、まさかね・・・まさかそんなことはあるまい、と思ったような結末に逢着したのでありました。

だいたい、児童をトイレに行かせず失禁させたり、裏切りやスパイ行為を奨励して友だちどうしを仲たがいさせたり、弱みに付け込み言うことを聞かせたり、そんなことをしても主人公が自分に従わないとなると、その子をクラスの中で孤立化させ、いじめを助長するようなことまでしておいて、それらはみんな、子供たちの成長を促すためにわざとやったことで、実際に僕たち私たちはこんなに立派になりました「終わり」、なんて脚本、欺瞞以外のなにものでもないでしょうが!

いやね、もう、真に悪魔の、真に『鬼』の教師が、徹底的に子供たちをいじめつくす(それに対して子供たちが反抗する)、という話なら、それはそれで、かえって面白いと思うんですよ。ところが、この馬鹿脚本家、反響が大きいということを見てとると、いくつかコメントを出してきたんだけど、そこで、いまの教育について考えてみると・・、みたいなご大層なことをぬかしやがった(気になる人は八月の最終週、か、その前後あたりの日曜、日刊スポーツを図書館などで探して、芸能面を開いて読んでみてやってください)。

確かに、部分部分の台詞には、今の子供らにおもねった教育を批判するようなところや、「ドラゴン桜」の中にも出てきそうなシビアな現実について語ったりといった、一見、世間の耳目を集めそうな批評的言辞もあって、軽薄な連中がそういうところだけを見て、問題作、のように褒めたりもしたわけです。

でもねえ、まちゃまちゃ(魔邪)じゃないけど、「はあ?」、ってなもんですよ。

そんな大上段に振りかぶった問題だのなんだのよりも、人としてそういうことするのはどうなのよ?、ということをさんざんその鬼教師(実は良い教師)にやらせておいて、最終的には「子供たちのため」「結果オーライ」という理由からそんな行為も許され、大団円って・・・・ふざけんな!、ってなんねーかな、普通。

だいたい、この鬼教師「阿久津真矢」が担任するクラスの子は、「神田和美」ともう一人の男の子を除いて、全員が先生になびいてしまい、そのもう一人の男の子っていうのも学校に行かないという形で教師との対決を避けてしまうわけですよ。

真矢のやり口によって孤立化された和美は、教科書に落書きをされたり財布を盗んだと濡れ衣を着せられたり、ひどいいじめに合うんです。それでも和美は不屈の闘志で立ち上がり、友だちを、また、クラスの連帯感を取り戻そうと大奮闘する。・・・・・。でも、これって、いじめに合っても自分の力でなんとかしなさい、と突き放してるだけのことでしょう。この時点で和美が自殺してもなんの不思議もないような描かれ方をしていたし。

そんな困難を耐えうる和美とやらはどんな描かれ方をしているのかといえば、家庭内は学校での娘の状況を知って全面的にバックアップしているというわけでもなく、むしろ無理解の上に、夫婦間には不協和が漂っていてまったくあてにならない。事情を知って唯一の味方となっている姉にしても、なぜだか鬼教師に弱みを握られるひたすら無力な存在となっている。

こんな逆境に耐え、たいした支えもなく、クラスの仲間たちに、このままでいいの?、などと反省を求めるような行動に移れる小学六年生なんてこの世の中のどこにいるってんでしょうか。

文化祭の出し物なんてことに時間を費やすのは無駄なこと、という真矢に対抗して、クラスのみんなでモニュメント的なものを作ろうよと提案し、それを成功させるのはひとえに主人公和美の奮闘によるところなわけで、彼女がいなければ、このクラスの人間は、鬼教師の悪行に唯々諾々と従うろくでもない連中ということで終わってしまったということ。

さらにさらにこの和美は、自らの行動によって真矢に反抗し始めたクラスメートたちが、なんとか教室内での担任の悪行を世間にさらし仕返ししてやろうとするのを止めて、あの先生は実は、私たちがこういう風にまとまることを初めから計算して、ああゆうひどいことをやっていたのではないか、などと言い出す始末。

失禁するまでトイレに行かせてもらえず、成績が悪いからとバツ当番をやらされ、反抗するからとクラスメートたちからハブかれるように仕向けられて、尚、「実はこの先生は良い先生ではなかったのではないか」などという小学六年生。

このドラマのタイトルは『女王の教室』となっていて、その“女王”とやらは誰もが天海祐希扮する鬼教師「阿久津真矢」と思っているんでしょうけれど、どう考えたってクラスの“女王”は、「神田和美」その人でしょ(苗字、‘神’田、とはなんたる皮肉)。

鬼教師から目をつけられないために身に着けた子供たちの礼儀作法は、いつしか、子供の成長とみなされ、クラスのまとまりを高めたのもまた、先生の指導あってこそ、と認められたのも、女王(あるいは‘神’。あるいは魔女)という、人間離れした存在あってこそ始めてありえた話なわけです。鬼教師は、女王(神)によって救われ、鬼ではなくなった。

こんな神的なものがいなけりゃ成立しないファンタジーを書いておいたくせに、教育問題を語っちゃいけませんよ。なんだっけ、遊川とかいったっけ、脚本家。それに同調したスタッフも同罪だけど。

話題になったのを受けて、映画版だか、第二段だかの話もあるようですが天海さんは乗り気でないようで、まあ、当然でしょうね。

これ見て泣いた、って奴がいるってんだからなあ、信じられん。