朝ドラ『風のハルカ』

震災クラスの壊滅的失敗作「天花」以降、「わかば「ファイト」とパッとしなかった朝ドラ。今期はどうやら期待できそうです。

朝ドラにしては珍しく、「満月の夜、山奥の湖に現れる金色の龍」なんて怪力乱心を出してきたり、子役の姉妹のケンカがかなり細やかに演出されていたところなんか、結構、お!、と関心したところなんだけど、なんといっても、一昨日の第二週二日目の放送は、ここまでの放送でこれを最終回にもってきた単発ドラマでもよかったんじゃねーの、という感動ものでした。

両親の離婚で、主人公のハルカは父と、妹のアスカは母と、別れ別れに暮らすということが決まります。学校帰り、喧嘩していた妹に置いていかれ、道端に寝転び黄昏ているハルカ。なぐさめようとやってきたいまいち馬の合わないクラスメートの女の子にハルカはこんなことを言う。

「私が大人だったら妹にもやさしくしてやれるし、両親の離婚だって説得して止めさせることができるのに」(大意)

重い病気で入退院を繰り返す兄を持つ女の子は答える。

「そんなことは無理。・・・地球は回ってる。重力かなんか、物凄い力で一日一回。でも誰にも止められないし、反対にも回せない。(これを見て、とボロボロの靴を指差し)うちのお兄ちゃんの病気も、家が貧乏なのも同じでことで、私たちにはどうにもならない。みーんなしょうがないこと」(大意)

もう、ね、から元気でなんの中身もない「夢」だの「希望」だの聞かされるより、よっぽど前向きになれる台詞だと思うですよ。凛、としてる。切ないけど。というか哀切のない凛々しさなんてものは無いんであってね。

そういえば、このシーンは、ハルカと友だちの二人が、寝転がって語り合っていたのだけど、哀しい経験をしている人に寄り添ってあげるために、より地上的・原初的なポジションからそれがなされているということには非常に意味があると思う。

それは次のシーンへと繋がっていくわけです。離れて暮らすために母と妹が出発するとき、ハルカは友だちとプールに行くという口実で駅への見送りにも現れない。走り出す電車。ところが、ハルカは、野っ原の真ん中の一本道に一人ポツンとつっ立って、二人の乗る電車を、追いかけるでもなく、手を振るでもなく、ただただ泣きながら見つめているって場面があったんですよ。カーッ!。そこでハルカは、哀しみを背負いつつも確かにそこに立ってるんです。もう、ここでかなりグッときてた。

それを見つけた妹が、電車の窓から飛び降りんばかりに身を乗り出して「おねーちゃん!、おねーちゃん!」と泣き叫ぶんですがね、これで、私、完全に、落ちました。

一週間ちょっとの放送で、これだけ効くんですから、姉妹のしっかりした絆をいかに細かく丁寧に描いていたかという話です。

妹は、次の駅で降りちゃって止める母親の手を振りほどき姉の元へと駆けていくんだけど、一度、その哀しみを背負ってそれでも、凛、と立っていたハルカにとっては、再び妹が戻ってきたとしてもそれはまた、別のことなんでしょう(うれしいことなのは確かだろうが)。別のこと、というのは、まあ、陳腐な言葉で言えば、大人の階段を登った後の、別の関係がはじまる、くらいの意味かな。以降、より母親的な役割を自覚していかなくちゃならないはず。これには象徴的なシーンがあって、この出来事以前、ハルカがなにげなく妹のほどけた靴紐を結ぶというところが描き出されてたことがあり、ほいで、母から姉の元へと駆け戻ってきた妹が最初に姉に言う言葉が「紐とけた」なんです。これなんか、あからさまに、お母さんになって、という主張になってるし、ハルカもまたそれを承知する。

妹にとって必要だったのは、母親そのものじゃなく、より安心できる母親的な存在だったわけで、それは実際の母親ではなく姉だと気付いてしまったんですね。いったん、そう気付いたら子供って残酷ですから、実際の母親のほうは切ってしまう。しかし、実際の母親も当然、それまで母親的機能を担っていたわけで、その部分の「母親」を求める心と、でも自分からそれを切ってしまった、という罪悪感と、ある種の刻印は妹の心にも残ってしまうのでしょう。んが、これもまた姉が登った階段の後を追いかけているということに他ならない。

♪大人の階段登る君(たち)はまだシンデレラさ♪

です。

カバチタレ」「ニコニコ日記」も素晴らしかった脚本の大森美香さんは、ご本人の中に何か持たれているのでしょうか、次の日の放送の中で、娘に逃げられた母親に対して、「子供たちの手紙になぜだか一度も返事を書きませんでした」、なる一挿話を書きこんでいて、妹の選択がある意味正しかったかのような印象を与えてます。真矢みき演ずるところの、仕事に生きがいを見出したお母さん、に対してはかなりきびしい描きっぷりのような気がしますがどんなもんでしょう。

さて、妹には姉という「母親」ができた、めでたしめでたし、かというとそんなはずなくて、姉もまた当然のことながら子供なんですよね。「母親」を担いきれるわけがないし(この担いきれない、というところに妹の成長のための糧はあるんですけど)、本人にも「母親」は必要なわけです。

この手の、「お姉ちゃん、しっかりしてるわね」的な子の不憫なところは、しっかりしてるばっかりに、「母親」を必要としているということが回りはおろか本人からも見過ごされ、終いにはやっかいな症状を呈するにいたってしまうというあたりにあるんじゃないでしょうか。

その点、「ハルカ」がちょっと安心なのは、一緒に道端に寝転んで寄り添ってくれる友だちや、おばあちゃんや、父親の「母親」的側面、また時には妹の「母親」があてにできそうなのと、学校帰りに一人で寝転んでいたこと自体、「母なる大地」なんてことをいいますが、大自然というものにも「母親」を感じることができているらしいところです。サツキにトトロやネコバスがいたのと同じように。

この「母親」について書き連ねていくうち、前期話題になったあるドラマについて思い出したのですが、それはまた明日に。

(本日放送分の「風のハルカ」で、子役の子から村川絵梨へと主人公役が代わったのだけど、これがまたよく似ててびっくりした。子役が先に決まって村川が選ばれたんじゃないの?)