時間--混沌から秩序への運動

これといって更新する予定はなかったのだけど、甲野先生のページを見ていたら、以前書いた

http://d.hatena.ne.jp/fkj/20050802

あたりの「前後ありといへども、前後際断せり」そのままな話としか思えないたとえが出ていて感動したのでちょいと触れておきます。甲野先生のその話題があるページはここ。

http://www.shouseikan.com/zuikan0508.htm#3

私が特に注目したのは、

悪質なクレーマーが「責任者を出せ!」と怒鳴っている間に、
その「せきにんしゃ」の「せ」と「き」と「に」・・・の一音
一音の間にもめまぐるしく対応係が変わって、それまでの経緯を
理解しない者が出続けたなら、文句を言う側も対応にまごつくだろう
という事。つまり、相手の押し込まれたり崩されたりというのは、
体がそれまでの経緯、物語を理解して、それに反応しようと
するからそうなるのであって、それまでの脈絡を知らず、
取り合わないという事は、相手の攻めに乗らないし、
相手が凄んでもそれに威圧される事もないという事である。
もちろん、これはあくまでも「たとえ」で、現実にこんな事を
客商売に応用したら店の信用は一度に失われてしまうだろうが、
相手と戦う際は有効だと思う。

養老孟司の言う「脳化社会」という語が典型的に示している通り、東京はじめとした都市部に住んでいる人の周りには、これこれのモノはこういう風に使うモノとして見る、という概ね決まりきった生活世界の意味分節にしたがってしか、身の回りのモノはない。たとえば「自動販売機」なんてモノがあるとすると、たいていの人はそれを「自動販売機」と深く考えもせず見てとってしまい、そう見てとってしまった途端それは、冷たい飲み物(冬なら暖かい飲み物)を販売する機械、であるとか、街灯代わりの明かりとり、であるとか、落書きのためのキャンパス、であるとか、ちょっと力ずくでひねってやれば小銭をいただける無防備なお宝、といった程度の、人の行動を限定してしまうような働きを持ったモノとして配置されてしまっている。「横断歩道」、にしたって、「看板」、にしたって、「車」、にしたって、それらが作られたそもそものはじまりは、これこれのモノはこのように用いられる、という意図なり作為なりが含みこまれて、もともとあった人の思惑とまるで無関係な物質性はものの見事に剥奪されている。

しかし、ちょっと都会を離れて山の中に入ってみれば、あるいは、海岸(できれば人のいない)にたたずんでみれば痛感せざるを得ないように、そもそも「世界」なり「宇宙」なり「自然」の中は、人の都合に合わせたモノなるモノたちによって意味の分節がなされているわけじゃあない。

なんでかわからないけれど、「私たち」が生きる上で非常な影響力を持ったモノたち。「風」「波」「山」「木」「火」「日」「光」・・・・。それらは別に、人の作為でもってそういう形(なり)をなしたモノではなく、極端に言えば、しかたなくそう名付けざるを得なかったモノたちである(人間の生き死にに深く関わってしまっていたという意味で)。

世界に偏在しているモノたちの「意味」の「分節」とは、そもそもがそういった、わけのわからない不合理な脅威に対する人間の死に物狂いの応対によっていたはずである。

黙っていても空腹は満たされ視線や接触や聴覚的な原始的欲求も満足させられた状態では、自らすすんで外部状況のあれこれを「認識」する必要などあるまい。

「認識」とは、そのような、人間にとってやむにやまれぬ切迫した状況が生み出した、いわば「発明」でしかない。いや、「発明」という言葉も、今の時代では、なにか想像力豊かな才能ある人間の意識的活動、のようなものととらえられそうなので撤回して、とにかく、それらモノたちを制御するためにどうしようもなく「認識」と言わざるを得ないような事態に立ち至ってしまった、というのが正確なところだろう。

「食物」にしろ「安全」にしろ「数」にしろ、「ある(存在)」にしたってそれをそうと認識した以上、切迫したある前段階があったはずなのだ。

私の理解するところでは、法華経をはじめとした仏教の「無」(あるいは「空」)とはその前段階のことを言っている(色即是空、であるとか、事事無礙、というあたり)。

そこには「無」と言えるような「ある」モノがあるらしいけれども、言語的活動の中では「無」というより他ないようなある境地。そんな境地のもとでは、「あるモノ」と「他のあるモノ」との間になんら境界は無い。常識的生活者から見ればただの混沌。

ある混沌から、「別」のある混沌、を分け隔てることなどできない。混沌は混沌のまま同じように「ある」より他ない(それを「ある」と言っていいのかどうかは疑問だが)。つまり、そこに「時間」は経過しない。

「時間」が現れるためには、単なる混沌(無)の幽玄なる蠢きがあるだけでは足りない。ある混沌を、名付けによって固定化すること、その固定化したモノを基準に前後が生まれてくる(「そのモノ」の消滅。あるいは、「そのモノ」の変化、という形で)。

井筒の語る道元の「創造不断」が注意を促す一端には、そのように混沌から析出・固定化されたものとしての秩序、としての「時間」というものがあるように思う。その都度、常に作られつつある「時間」。

このへんは「タオ」的な考えとも繋がっていきそうなところで、もはや誰からも相手にされない妄想領域に突入しているところなんだけど、正直、もう一生、そういう浮世離れなことだけ考えて生きていきたいと思うと同時に、明日は午前中ディズニーランドの近くに言って午後は血の跡も転々と残っている例の大山の現場で仕事で、それを思うと、とりあえずテレビでも見て気を紛らわしたい気もするので、笑金でも見る。