フィル・ソロモン『フロイトと作られた記憶』

岩波のポストモダン・ブックスの一冊。ブログなどで見かけようものならすぐさま読む気が失せてしまうくらい薄っぺらな言葉、「ポストモダン」。(そう括られがちな人たちの書くことが薄っぺらというわけではなくて、そんな言葉を出すことで何か言えそうな気になっている人が薄っぺらい。もう、ヘイポー並みに薄っぺら)。だからというわけではないのだろうけど、新書より薄い100ページほどのこの本。値段はなんと1500円。あほか。

とかいって、私は一昨日、渋谷東急の古本市で買ったんですけど(それでも900円、高ぁ〜)。渋谷、新宿、池袋にあるデパートの催事場でひらかれる古本市にはたいてい行くようにしてて、この渋谷東急と、地元池袋サンシャインのワールドインポ−トマートのときにはヒット率が高い。渋谷東急でフロイト本以外で買ったもの。

中井久夫・山中康裕編「思春期の精神病理と治療」岩崎学術出版社(525円)
瀧口範子「行動主義 レム・コールハース ドキュメント」TOTO出版(500円)
デイビット・ローゼン「ユングの生涯とタオ」創元社(1200円)
成田善弘「精神療法家の仕事 〜面接と面接者」金剛出版(1300円)

コールハースのも、はじめの30ページほど読んでみましたが、これがかなり面白く期待大なところ。でも本日はとりあえず『フロイトと作られた記憶』について。

最近岩波現代文庫に入ったウルズラ・ヌーバーという人の『〈傷つきやすい子ども〉という神話―トラウマを超えて』であるとか、ロフタス『抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって』などの紹介によって、アメリカあたりではカウンセリングや面接の現場で、セラピストの暗示や誘導がありもしなかった幼児期の性的虐待の記憶を作り出し、さまざまな問題を引き起こしているらしいと、ここ日本においてもわりとよく語られるようになってきた。

フィル・ソロモンのこの本の内容は、「作られた記憶症候群」と名づけられ激しい議論を巻き起こした騒動の元凶は果たしてフロイト精神分析にあるのかどうか、ということをフロイトの著書に実際あたってみることで探り出そうという試み。

フロイトからの引用がいろんなところからなされて事細かにフロイトの「トラウマ」や「抑圧」、「記憶」にたいする考えの後付けをするのだけど、「作られた記憶症候群」がフロイトに発する問題なのか、と言えば、以下の引用部分だけでも読めばとてもそんなことが言えるはずないということが分かるはず。

結局のところ子供時代「からの」記憶などというものがあるのだろうか、という疑問が生じるのももっともかもしれない。子供時代「に関する」記憶、それだけしか私たちにはないのかもしれない。子供時代の記憶は、私たちの子供時代を実際の通りに示しているのではなく、後になってその記憶が再生したときに子供時代がどう見えたかを示している。子供時代の記憶は、人がよく言うのとは違って、記憶が再生されるときに「浮かび上がってくる」のではない。子供時代の記憶はそのときに形成されるのだ。そして、多くの動機が、歴史的な正確さにはおかまいなしに、記憶そのものの選択だけでなく、それらの記憶の形成にも関わってくるのである。
フロイト『隠蔽記憶について』1899)

フロイトは、記憶って過去におこった事実そのものを捉えているというわけじゃなく(歴史的正確さにはおかまいなしに)、そもそも「作られた」ものだと言ってるわけで、それって、よく考えてみれば当たり前の話でしょう。それが当たり前じゃなく、「症候群」などと言われて問題にはなるのは、「事実」そのような虐待があった、というようなことを言って親を相手に裁判を起こしてしまうという、記憶の、事実に対するおかまいなしさ、を都合よく無視した、ある種の「信仰」に基づいた薄っぺらな人の勘違いが元凶にあるということ。で、その「信仰」の中身というのが、フロイトもろくに読まずに、通俗的に流通している「症状の裏にある幼児虐待の事実」という紋切り型だったりするわけだ。

解説を書いている大庭健氏も書いている。

さて、本書のテーマとなっている「作られた記憶症候群」だが、これはフロイトの思想が人々の生活の中で通俗化されたもろもろの形のうちで、例のアダルト・チルドレンとならんで、もっともたちの悪い現象のひとつと言えるだろう。もちろん当の患者たちはこれを正しい記憶だと主張するわけだが、彼らの言う「幼児期に父親から受けた性的虐待」は、決まって、まともな訓練を受けていない「セラピスト」の「診療室」の中で「想起」されるわけで、本書で著者がフロイトの考え方の展開を追いながら解説することで示しているように、この「症候群」はフロイトの試行錯誤の、錯誤の部分から派生している。

じつは、そういう指摘はもうくり返しなされていて、しかし、恐ろしいことに、たいていの「セラピスト」たちはそういう批判にはまるで耳を貸さないし、批判されてからフロイトを読んでみる数少ない者にしたところで、フロイトの自己訂正こそが誤りだった、フロイトは自分の発見の恐ろしさから目をそむけて理論をねじ曲げた、と妙な居直りかたをするのである。

他方、多くの精神科ないし心理学の専門家たちが、こういう「症候群」の出現を機に、これまたろくにフロイトを読みもしないで、フロイトは「非科学的」だったと中傷するわけで、イギリス人の著者が本書の冒頭で、その手の大家たちをわざわざ紹介しているのは、あるいは、自分の不見識をよそに他人を論じがちな今のアメリカ人たちの悪い癖を遠まわしに皮肉っているのかも知れない。

いや、精神分析を信じていたときですらアメリカ人たちは、フロイトの著書をまともに読みはしなかった。精神分析医でもない限り、おおかたの知識人たちが読んでいたのは、フロイトの弟子たちの手になる分かりやすい解説書ばかりだった・・・・

実は私も、フロイトに関しては「夢分析」も「精神分析入門」も通読できているわけではなく、あとはちくま学芸に入っている「自我論集」「エロス論集」の何本かを読んだくらいで大口たたけるわけもないんだけど、多少、精神分析について興味を持って学んだ人なら、フロイトが「心的現実」といって、単なる「現実」とはまた違った現実について語っていることくらいすぐにわかりそうなもんだと思うし、そうすりゃ、「心」なんてややっこしいものを「科学」が扱いあぐねていることにすぐ思い至って、簡単に「非科学的」だ、などという中傷もできんと思うのだが。まあ、それはいいや。

以前、奥泉光が大田出版の「必読書150」の聖書の項で書いてたと思うんだけど、世の中に聖書の注釈書くらい面白い読み物はない、とかあって、それって聖書だけじゃなく、いわゆる古典的名著といわれるものの注釈書って、たいてい面白いんでないかい、とも思えた今回の読書。通俗的なイメージやら、流通している紋きり言葉に対してとやかく語るんじゃなく、とにかく実地に接してみることで、見えてきたものについて書く。

先週、本屋で立ち読みしてたとき見つけたのものに『驚異の百科事典男』とかいうのが文春文庫から出てて、この著者はブリタニカ百科事典33000ページ読破していく様子を綴っていくんだけど、それは、注釈、とは言えないかもしれないけれど、読んでいる項目から連想されることや、読んだことを現実に生活に持ち込んだ様子、自分に起こる変化、などなど、その「実地」を経た上での文章の動きが面白そうで機会があったら読んでみたく、そういえば、「実地」を経た上で動いていく文章って、『奥の細道』もそうだなあ、と思ったのでありました。しかも、それは、事実そのまま、というのではなく、「実地」にうながされつつ連想やら記憶やら知識やら感興やら諸々は凝縮されて、別の旅(テクストの旅?)への誘いとなっている、という。今、私は「末の松山・塩竃の浦」で逗留中。