井筒俊彦『創造不断』(「コスモスとアンチコスモス」所収)

つい先日、毎年恒例の八社共同書物復権で出ていた井筒の『コスモスとアンチコスモス』を立ち読んでいたら、道元の時間論について書いてあるこの論文に目がとまり、どうしても読みたくなったけど、4000円越えのその値段に、ちょっと買うのを躊躇して、図書館にないものかと思ったら、図書館所蔵の同氏著作集の中に入っていたので読んでみました。もう、どう言っていいのか、驚天動地というか抱腹絶倒というか、とんでもない時間論です。

永井均の『私・神・そして今』は、ラッセルの五分前世界創造説を一歩目の手がかり足がかりにして話が始まっていて、それは、五分前にただ一回だけ世界が創造された、という想定で、この話自体に対する印象としては、もしかするとそういうこともあるかもしれない、という感想を持ったくらいで、馬鹿げた話だ、とも、興味深い話だ、ともあんまり思わなかった。

ところが、どういう話の流れだったか確かめていないのだけれど、確か、五分前にいつでもそのつどそのつど新しく世界が造られる、というようなことが書いてあって、これには、相当笑ってしまった。もう、だって、とてつもないことですよ、これは。いったいどれだけの数の世界を造るつもりなんですか、神様は、という。幾何級数的というかビッグバン的というか瞬時にぼこぼこ造られていく無数の宇宙。一億って1のあとに0が8個あって、0がたった8個あるだけでそれだけの数字になるのに、1のあとに一億個の0をつけたらいったいどんな数なんだ、と思いつつ、1の後に一億個の0をつけた数の分の0をつけた数はさていくつでしょう・・・・、というような増え方。でも神様だったらそれくらいしないとね。

で、井筒の語る道元の時間論にも、同種の広大無辺さを感じてしまったのでした。ただし、こちらは神様無しの話、想定だのなんだのって話じゃなく、事実、時間というものは(つまり世界というものは)、こうなっているんだよ、と。

どういう話なのかはどう考えても井筒先生の論文を読むのが一番てっとり早いと思うのだけど、ウィンドウを開き続けるブラウザクラッシャーを止めるためにパソコンの電源を落とすような乱暴な仕方で簡単にまとめてみると、世界というものは今まさにこの瞬間、これまでの過去とこれから続いていく未来全部をひっくるめて一挙に与えられたもので、普通、人が感じている時間、未来から現在に至り過去へと流れ去っていくという時間、そういう時間だけがあるのではない。世界が、「現在過去未来」ひっくるめて一挙に与えられているというのならば、その世界はある意味「無時間」とも言える。ただし、そうすることで時間が無化されてしまったわけではなく、「現在過去未来」をひっくるめた世界の現れが「時々刻々」と起きている、と。ただし、その「時々刻々」の時は、いわばメタ時間(こんな言葉は使ってないが)とも言える時間で、そこには別に未来の相も過去の相もない。この「時々刻々」の時を、「経歴(きょうらく)」と道元は述語付けているのだけど、どうもこのへんはまだ私には計り知れないところがある。

ただ、この時間意識は、あきらかに、内田樹先生や甲野善紀先生、光岡英稔先生のおっしゃっている、武術の時間意識とリンクしていると思われる。だって、そのつど「現在過去未来」と一挙に与えられている世界の中(『前後ありといへども、前後際断せり』道元)のどこらへんに、思惑というか計算というか意図というか、入り込む余地があるのか。意図無し、ということは、まさに、自然(しぜん、じねん)な変化、運動しかない、となって、そのような時間意識の元には一切の居付きは無い(現れ得ない)、と、こうならないだろうか。

いつものことながら先走って、ただでさえ理解不能な文章が既知の外へとあふれ出してきた。

ああ、でもねえ、この論文読んでから、なんか、街を歩いていても感覚が妙。