『身体の言い分』内田樹・池上六朗(毎日新聞社)

昨日、我が師匠内田先生のブログにこの本の宣伝が貼り付けられていたのを発見し、自分としては異例の速さで買いに走った。好きな人の新刊でも、たいていは一月以上は買わずにおき、立ち読みとかしつつ段々と買いたくなる気分を高めてから買う、というパターンがほとんどなので。

ましてや買って半日もしないで読み終わったのなんてマンガ以外ではありえないこと。まあ、それだけ、私にとっては「読みやすい」内容であったということなんでしょう。ある程度、こういうことが書いてあるだろう、という予測と合致していたのと、もちろん、その「こういうこと」の言い方の面白さと、その両方で「読みやすい」、と。

とりあえず通り一遍、読んだだけのうちで、いっとう、ガン!、とやられたところを挙げると、102ページの池上先生の言葉

<患者のことを思った結果、患者のことを考えないのがいい、と>

のあたり。前後の文脈がないと今ひとつ意味がとりにくいと思うので説明すると、内田先生いわく、池上先生の治療は、池上先生の身体の「いい感じ」を相手に移すことなのではないか、ということらしい。両先生ともに、人の感じる「いい状態」というのは感染する、と考えておられ、さて、では、一般に治療と呼ばれているものの構造はどうなっておるのか、というと、まず治療者は方法なり術なりを学ぶことによって患者に相対するわけだが、それだと「頭」が先行して「身体」に緊張が走り、その緊張に患者も影響されてしまう。結果、その緊張に影響された「症状」を治療者は発見し、ではこうしましょう、と治療ということになるのだが、しかしそれではマッチポンプではないか、と。だったら、患者のことを考えるんじゃなくて、自分がどれだけ「いい状態」「いい感じ」になっているか、が大事なのではないか、と、たぶんそういうことだと思う。

わたしがまとめると、途端につまらくなるなあ。まあいいや。

それで、その、患者のことを思った結果、患者のことを考えないのがいい、という逆説的表現のうちに、武術についてぽんやりとできあがってきたイメージが、あんまりぴったりはまり込んできたのでたまげたというところがあったのだろう。

「よーい、はじめ」でいっしょに、ドン、と始める動きや、相手に合わせた動きというものは、武術的に見て、どうやら高級なものではないらしい。それは、甲野先生や光岡先生に触れさせてもらったときに、身体的にも感じることができた。例えば、甲野先生とは、単なる押し合い、みたいなことをさせてもらったのだけど、それをただの力勝負にするのなら、どう考えても私のほうががたいもいいし力もあるので勝てそうなものなのだけど、それがいとも簡単に押し込まれてしまって、こう、「いやいやいやいやいや、今のは違いますから、もう一回」と言いたくなるような、「そのタイミングはずるいでしょう」と言いたくなるような、気持ち悪い感覚があるんです。だからといって押されないように構えていても結局無駄なあがきとなってしまう。

で、これは、決して私の動きのタイミングを見計らってやっているわけではない。ん?、いや、甲野先生の場合は、ちょっと簡単にはそう言えないようなところも感じるのだけど、でも肝心なのは、相手云々ではなく自分がどう動くか、というところにある。相手ではなくて、自分がどう動くか、これが、結果的に相手を動かす。

「患者」というのは、どこかが悪くて「患者」なんだから、そのどこかをどうにか変化させてもらいたい。あれやこれやの症状というものを、その人の生活態度・身体運用の偏った結果と見なすとすると、それは、ある安定(慣習だとか、まあ慣性の法則みたいなもの)状態にあってなかなか動かせない。あれやこれやの症状を頭で判断し、この症状にはこの治療、と相手に対応した動きだと、先に言ったとおり、別の部分に無理・緊張がかかるかもしれない。

そこでもう一つ、別の動かし方として、相手に対応しない動き、相手のことを考えないで相手を動かす、という技を考えてみる。相手を動かす、というか、自分が動いた結果なぜだか相手も動いている、というような運動。しかし、それも技として人に伝えられる限り、頭の問題になり、あらたな緊張を生む。さてどうしたらよいか。

これが武術の問題であり、私の癖の問題でもある。問題なんてないんだけど。