大いなるもの

http://d.hatena.ne.jp/fkj/20050619
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(『不確かさの中を』P138)

(編集部)私は、自分が何かに深く守られている、と感じることがあるんですが、それは?

(神田橋)それは大いなるものですね。

(編集部)これまで生きてきて、今ここにあるまでに、どれほど大きなものに助けられてきたか、と。十年前の自分と今の自分を比べたときに、やはり、何か大きな意思のようなものを感じないではいられないんですよね。

(神田橋)しますね。僕もそうです。私は、ひょっとしたら、特別に恵まれた人なのではないかと、思わない?。何か才能に恵まれているんじゃなくて、大いなるものの寵愛に恵まれているんじゃないか、特別扱いされているんじゃないか、なんでこんなに運がいいんだろうと。

(滝口)私は、神田橋先生は「特別扱いされている」と思います。だけども、人類すべてが「大いなるもの」につながっているはずですよね。

(神田橋)うん、そうだね。

(滝口)するとね、いちばん切れてるのが、いわゆる患者さん。クライエントの意識が切れているんじゃないかと思うんですがね。

(神田橋)そうね。意識が切れているか、切っているか。

(滝口)切っている、うん、つながっていない。それをつなぐのに、先生の『コツ』の中に何かありますか?

(神田橋)ない。それはないよ。今のところ、言えるとしたら「祈り」だね。この人にも、そういう寵愛がすぐそこまで来ているんだから、つながるように、本人が受け入れてくれたらいいのになって、いつかその日が来るといいのになと思うのは、やっぱり祈りなんじゃないかな。

だからといって、「あなた、何か大いなるものを信じてみるようにしたらどう」って言ったって絶対にだめだということは、これはもう技術者としてわかる。そういう何か人智を超えたものに対する感謝を感じるというのを心理療法で引き起こすことは、今のところ考えてませんね。こちらに祈りはあるけどね。宗教者は、しばしばそれを目指すわけだね。

(滝口)ところがね、宗教者はそれを目指して、しばしば先生のなさる努力のほうをすっ飛ばしてしまいますよね。そして、傲慢になってしまったりする。先生のお話をうかがっていると、人間としての精一杯をして、その次に「祈り」とおっしゃっているように聞こえるんですが。

(神田橋)どこかにあったぞ。「人事を尽くして天命を待つ」というのがあるでしょう。そうじゃないんだって言った人がいたよ。「天命を信じて人事を尽くす」だって。あれはいい言葉だと思うね。

(滝口)そう、天命を信じて・・・。

(神田橋)「天命を信じて人事を尽くす」。いい言葉だね。でも、僕はそれほど天命を信じてはいない。祈りだね。だけど、何かせつない感じが自分の中にあるなあ。この人に、そういう日が来るといいのになって思うけれど、なかなかそうならないから、哀しいね。

わたしは、別に、「大いなるもの」に特別扱いされている、という風な感じを持ったことはないけれど、(あー・・もう、ちょっちダメかもしれない・・・)という感覚がギリな状態になったときに、ことごとく、ある種の偶然に救われた、といったような、最終的には(何をもって最終的というかこれはこれで問題だけど)守られているんではないだろうか、という思いは、ここ5、6年くらい前あたりからだろうか、感じるようになってきたし、さして調子いいとも言えない今(調子がいい、という別の形の調子の悪さに陥っていると自覚するようになってきた)も、なにかどこかで、そこに救いを求めているようなところがあったりする。が、しかし・・

ここで突然小野田少尉の話になるんだけど、小野田さんはジャングルの中の苦しい生活の中で神様とか仏様に祈ったこととかないんですか?、とインタビュワーの戸井十月が尋ねたとき、「毎年一回、正月だけは、なんだかはっきりはしないけれどとにかく自分をこれまで生かしてくれたとしか思えないことに対して万物の神に感謝の気持ちで手を合わせた」、というようなことを言っていて、「でも、今年も一年よろしく、ということは頼まなかった、それは自分ですることだから」、みたいなことを言っていたのには、ほんとに心底目を洗われる思いだった。

「大いなるもの」に救いなんか求めちゃいけないんですよ。

いま思い出したけど、ユダヤ人の経典、タルムードかなにかの話で、聖書の中の神の言葉に関する解釈についてラビ(ユダヤ教聖職者)同士で論争になったため、神様がそこに現れてその言葉の本当の意味を話しはじめようとしたら、これは人間の問題であなたとは関係がない、とか言って神様が口を挟むのを許さなかった、みたいなことをどこかで読んだ覚えがあるのだけど、それって小野田さん的ですよね。小野田さんがユダヤ的なのか。どっちでもいいや。

そう、救いなんか求めても救ってはくれないのは、ありとあらゆる物語でも語られているし、様々な危機的状況に遭遇してきた皆さんも、実際のところアテになんかならないということは百も承知でしょう。

生き残った者の、事後的な感想でしかない、と言えば言える「大いなるもの」なんだけど、それでも、それだけあてにならないものでも、それと繋がっている、という感覚は、溺れる者の掴むワラとしては、相当に立派なものなのではないか、という気もするのだけど、どんなもんなんでしょうねえ。