民主主義と移動の自由について

今、まさにほんの3、4分前に全然関係のない下らないこと考えているついでに突如思いついたのでメモがわりに書いておきますが、以前、ここら

http://d.hatena.ne.jp/fkj/20041212

あたりで取り上げた本にあったように、「民」なるものが力を持つとしたら、なんであれ、「移動」だけは好き勝手にできるようにしないと、どうやったって「民」が「主」になることなんかないじゃないか、と。

北朝鮮じゃあるまいし、移動の自由なんかいくらでも保障されてるではないか、と言われそうですが、「自由」の名の下に行われいるのは、移動は自由である、というただのスローガンと、実に巧妙なイデオロギー操作による、安定だの将来(老後)だの暖かい家庭、などといったイメージ操作、のいずれかでしかない。「スローガン」と「イメージ」、どちらが人の行動に影響を及ぼすか(もちろんそれらは泰然と分かたれるわけではないのだが)。

たとえば、選挙さえ「正しく」行われればそれで「民」は「主」かと言えば、ちょっとあれこれ身の回りを見てみれば決してそのようになってなく、土地がらみのコミュニティやら宗教がらみのコミュニティやら、コミュニティとさえいえない似たようなテレビ的イメージ戦略(もちろんテレビそのもののイメージ戦略も)によって、かなり「誰か」の恣意によって投票行動さえ左右されているのだし、そのような「イメージ」は一切投票行動に関係してなかったとしても、「少数派」は、必ず出てくるはずであって、じゃあ、そのような「少数派」は「民」の中には数えられないか、と言えば、一部に「民ではない」と言うラディカルな人もいそうだけれど、概ね、彼ら「少数派」だって「民」のうちに数えてくれるだろう。

たとえ「少数派」であったとしても、その場に留まり、戦略的「イメージ」操作に精出す方法もありそうだけれど、それよりも、単純かつ廉価で済みそうなのが、別の政体への移動なんじゃないか。

でも、「別」の政体への移動となると、今の時代では、「国外」ということになって、言葉や習慣といった高いハードルを越えねばならないという「自己責任」が待っている。

ただし、その「自己責任」というものは、(国を)出るにしろ入るにしろあなた方の勝手ですよ、という取り決めあってのことで、国内の法律により、また、国と国との取り決めにより、事実、移動の自由には「国」の承認が必要だと言うのなら、承認した「国」は、ある程度「国民」の安全や便利にも気を配らねばならないし、あくまで移動の自由を主張するのなら頭の悪い狂信者につかまって首を切られるのも「自己責任」ということになる。

まったくあっという間に書いた世迷いごとで誰もついてこれなさそうですが、ともかく、そんな風に、出るも自由、入るも自由、と言ってくださると、ものすごく「民主主義」や「自己責任」という語が、身近に感じられるような気がしてきた。

すげー、今までにない勢い更新。くだらねー(笑)。でも楽しい〜