新潟行

「武術探求」はじめとする甲野善紀先生経由で知った、中国武術“韓氏意拳”の正統な後継者、光岡英稔先生の意拳講習会に参加するため新潟に赴く。

土曜の夜中出発の高速バスを利用したのだが、これが思いのほか過酷。仕事で何度か利用した甲府コースなどにはそれほどキツさを感じなかったし、十一年ほど前、今夏、ユースケ・サンタマリアを向かえて芝居を打つ後藤ひろひとが劇団遊気舎座長時分に伊丹AI・HALLで芝居するというので利用したときも、それほどは苦痛に感じなかった高速バスだけど、今回、五時間ほどのバス行はかなりな苦行で、拘束バスといってもよいくらいでした(関係ないですが、その伊丹遠征のとき、周辺で丸々と時間を潰させてもらった阪急伊丹の駅が三週間ほどして震災のせいで崩落したニュースを見たときは、かなりびっくりしました)。

(やっぱ、脚、長ぇ〜からな)、などと苦痛を慰めていた私も、基本的には伊丹行のときと変わらぬ六尺二十貫弱ほどの体型を今でも維持していて、じゃあ、何が変わったのかと言えばそれだけ年をとったということで・・・・。バス代、割引になるというので往復チケットを買っていたのだが、帰りはそれをキャンセルし新幹線で帰るという弱腰&お大臣ぶり。。昨夜はプライドを見てすぐ寝に付き、普段は六時間も眠れば、あー、すっげーよく寝た、と思える私が九時すぎまでぐっすり眠ってしまったというあたり、疲れ具合が容易に想像されるでしょう。

その移動の中でわかったのは、抱き枕、ってかなり使えるということ。講習会で必要だったジャージだの室内履きだのを入れたバックを、バス乗車時足元に置いていたのだけど、普段山手線だの営団だの乗ってるときちょい寝するのにピッタリなバックを抱えて前のめりになる姿勢をとろうと、それを抱えてみると、ただそれだけでだいぶんリラックスすることができて、1,2分ほど瞬間的に気絶する、みたいな睡眠しか取れなかったものが、5〜10分ほどは気を失えるようになったのでした。座席のヘッドレストに頭をもたせかけて踏ん反りかえって眠るよりも、頭(こうべ)を垂れて眠るほうが性に合ってるというのはわたしの謙虚さの表れとも言える。

実らずも、頭を垂れる、色男。

誰か猫バスの抱き枕、買って下さい。トトロでも可。

講習会は9時半開始だけど、到着は早朝五時。あらかじめ知り合いに訊いておいた万代橋付近の信濃川沿いの土手で、こわばった体と眠すぎる頭を休める。ガスっていた中、感じのいい朝焼けを見せていた太陽はしかし、徐々にギラギラと意地の悪さを発揮しはじめる。7時半を過ぎた頃、少々早すぎるが会場となる生涯学習センターに退散。センターが入っているなんとかいう建物は、開いてはいるけど冷房も入ってないし人もいないので、外の日陰になるところで腰掛けるのに都合いいところを選び読書。読むは神田橋『精神科診断面接のコツ』。神田橋先生もたわむれに太極拳を学ばれたことがあるらしいが、やはりどう考えても「使い手」としか思えない。とにかく、武術的観点からいっても、相当なヒントがあるように思える。これについては、後日また触れる。

この時点でかなり疲弊していたわたしは、半分くらい、あほなことをしたもんだ、とも考えていたのですが、講習会を30分、一時間、二時間、と受け続けているうち、ああ、やっぱり、本物は違う・・・、と山ほど、!、を重ねておりました。

うわさには聞いていたが、あの人あたりの柔らかさ、感じの良さはなんなんだろう。どちらかと言えば、ひとに厳しさを感じさせるところのある甲野先生とは、また違ったすごさがある。そしてなにより、立ち姿。背も高くないし、デブではないがずんぐりした体型がただ、スッ、と立っている姿。

新潟行きの直前、衛星放送でやってた「小野田寛郎」のドキュメント番組で見た、83になる小野田氏の、背筋の伸びた、ピッ、とした立ち姿にも、これはかなわない、と思ったけれど、あの姿勢は、やっぱり、ジャングル生活29年の時間あってこそ、というところ無きにしも非ずだろうし、でも、案外、元から持ってた規矩(カネ)、ああゆう姿勢、があったらからこそジャングルの29年を生き続けたともインタビューを見たところから感じられもした。この人についても別に触れたい。

講習会の内容までは、素人がとやかく書くべきではないと思うし、まあ、それほど突飛なことをしたわけではなく、ただ前後に腕を振ったり、立禅とも言われる站椿のやり方(立ち方)を教わっただけなんですが、やはりどうしてもブッキッシュな私にはそこから伺い知れる思想にどうしようもなく惹かれてしまったのでした。

メモ的に書いておきますが、不用脳不用力、身体の三次元利用と思考の二次元利用(『私の身体は頭がいい』BY内田樹)、站椿の姿勢の意味(中間の中間の中間・・・)、そして叙展(これは叙の字が違うかも)。叙展とは運動の状態を言った中国の言葉で、たとえば、スポーツなどで言われる「リラックス」「脱力」というのは「緊張」「固定化」(居付き)と裏表の関係にあって、そうではなく、「自然」は「叙展」の状態にある、ということを言っていて、おお!、と思ったのは、死体というのは脱力仕切っている上に固定している、と言われたことで、じゃあ生きているわれわれはどうすればいいのか、というあたりに進むべき道はあるように思われる。

ただし、このような概略は、その技をなんにも使えないただの「思考」の人のまとめですので、なにごとかここを元に考えようとする奇特な方がおられましたら、必ず、光岡氏関連著作を読むなり、なにより、実際にお会いするようにお願いします。

やっぱり、言い様が無いところがあるんです、身体系は。そこに危ない人たち(いわゆるニューエイジや宗教系)が集まってくる素地が出てきてしまうのだけど

http://www.shouseikan.com/zuikan0506.htm#2

の甲野先生のような気持ちにも、半ば以上うなずけるわたしには、今のところ身体改革(煎じ詰めれば脳の改革)を止めようとは思わないのでした。

なんだか、連想したのことの半分も書けてないな。要するに馬鹿なんです。どうにかしたい。