続『私・今・そして神』

5月9日の日記でわたしは、永井の話を<現に「仮」の話>と書いた。永井の言う「現に」で何を言っているのかわからない、とも。永井の話は誰がどうみたって、現実に「仮」の話だろう。・・・

わたしは上記のようにしてしか、誰かわたし以外の人に意味不明ととられずに、現に、とか、現実に、とは使えない(ふざけているのではないとすれば)。要するに、そう使うのが正しい、と思っている。まあ、思っている、というのも正確ではなくて、ただそのように書いてしまうようにできている、とでも言ったほうがいいかもしれない。

それと同じで、着脱可能な「私」だの、「現実に存在するという性質」(P89)だのがまったく理解できない。使える場面を想像できない。もし想像できるという人がいたら、それは間違った場面を想像している、と言いたくなるところがあるけれど、他の人はどうでもいいや。とにかく、その89ページにはこんなことが書いてある。

・・・現実に存在するということは他のあらゆる事実とまったくちがう種類の事実である・・・・。だから、現実のこの世界は、現実に存在するという性質を奪われても、内容的にはまったくそのまま、神の知性の中に存在することができるわけである。

「現実に存在するということは他のあらゆる事実とまったく違う」と書いているのに、与えたり奪ったりすることのできる性質を持っているという点では、他の平凡な事実と違わないというのは、いかにも都合が良すぎる気がするがそれはおいておこう。

神がわたしなんかには及びもつかない相当な知性を持っているだろうことを認めるにやぶさかではないけれども、ここで永井の言っている「知」の中身がわたしにはまったく理解不能としか言えない。わたしは、わたし(お好みなら「私」でも<私>でもよい)をはずしてしまったその先というものがま〜ったく、おそらくこれ以上ないというくらいにわからない。あえて言えば、無、としか言いようがないけれど、しかし、その時、その無と語っている(なにかが語れているつもりになっている)者は誰なのか。<ナレーターは誰なのか>。

こうしてこの問題は一直線に第三章「私的言語の必然性と不可能性」へとつながっていく(んではないでしょうか)。

あああああ、もう、イヤ!