第二章 ライプニッツ原理とカント原理

ゴールデン・ウィークはこの本と安永浩『精神の幾何学』にほぼかかりきりでした。まあ小説何本か読んだり『天然コケッコー』読み返したりもしてたんですが。

で、この後の私に相当な影響を残しそうなのは『精神の幾何学』で、すぐにでも二読、三読したり、関連図書にあたってみたりしたかったのに、案の定というかなんというか、永井の議論を寝る前にちょっと考えてみたら眠れなくなって、ある程度は覚悟してたつもりなんだけど、やっぱり頭がおかしくなってきそうなんでちょっとだけケリつけて吐き出しておこうと思います。

一番、気になったのは、永井の言う「カント原理」の見落とし、ってあたりで、わたしはどう考えても「カント原理」が一番うまいこと“とある状況”を描いているように思えていたので、なんかどこか永井の議論におかしなところがあるんじゃないか、と考えては、読み返してみると、ことごとくそういうところが塗りつぶされていたのですっかり参ったのでした。(ほんとうは、デカルト原理が一番うまいこと・・・と書きたい衝動に襲われる)。

躓いたのは、未来のマッドサイエンティストかなんかが、私の身体をスキャニングし、まったく同格の二つの身体を作ったとき、どっちが「私」になるか、というような思考実験のあたり。わたしは、その手の話題には、あんまり面白さを覚えず、それは、いくら同じ身体(記憶)を持っていたところで、「私と同じ身体(記憶)を持ってる人が目の前にいる」とかなんとかいう条件が分裂後に付け加わっただけで、なんらカント原理に抵触してくるとは感じられなかったんだけど、まあ当然、そんなことは永井も織り込み済み、「仮に」片方の体、例えばa身体が「私」になったら、他方は他人、ということではなく、なぜだか「現に」a身体が「私」になってしまったから、「仮に」なれるのはb身体の方だけ、ということを言っているという。これは、ずいぶんわかりにくい話ではなかろうか。だって現に(!)、「仮」の話なんだもの。「現に」ということで、何を言ってるの?。永井がどれほど、「現に」「端的に」あるいは「<私>」と書いたところで、それらはいずれも「仮」の話、可能性空間の中の話でしょう。

と、こう書くと話は終わってしまいそうなんですが、それでも、どうして永井は、<私>、や、「現に」、や、「端的な」、なる語を使って、ことさらに違いを強調せねばいかんのか。

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デカルトは、言葉の上で彼とまったく同じ方法的懐疑を実践し、言葉のうえで彼とまったく同じ結論に達した、彼ではない人物がいたら、その人物の「私」の存在も自分の存在と同じように疑いえないと言うだろうか。デカルトは、その人の思索を「その人思うゆえにその人あり」とは捉えずに、「我思うゆえに我あり」と捉えるだろうか。デカルト自身のテクストは両様の解釈をゆるすと私は思うが、彼のこの揺れはきわめて本質的な問題と関連しているだろう。

要するに永井のこの本は、というか、永井の書くものはことごとく、この揺れに発してると言っていいんじゃなかろうか。確かめてないのだけど、『私・今・そして神』の中では、<私>はさして問題になってなかったような気がする。なにか特別な、<かっこ>つきの<私>ではなく、地の文の中に開いた、「端的な」「現に」によって、揺れを記述しようする試み。誰も彼もが書くようになった<私>では描くことができない揺れ。

それにしても、「揺れ」といい「開闢」といい、徹底的に論理的につめていった先、というか根元にあるこれら言葉がなぜだが動的なところが示唆的ではある。

さて、短いながらも、もっとも目の回る第三章については、頭を休めて、気が向いたらまたやります。