岡野憲一郎『心のマルチネットワーク』講談社現代新書

著者はアメリカで精神分析の訓練も受けた精神科医。10年近く前に『外傷性精神障害』という本を出し、日本においてはかなりはやくから心的外傷(いわゆるトラウマ)や、解離性同一性障害(いわゆる多重人格)についての考察を発表している人。

以前、「恥」の感覚についてどうしようもなく気になっていたときに、氏の『恥と自己愛の精神分析』という本を見つけ読んでみたのだけれど、今ひとつピンとこなくてあまり記憶にも残っていない。精神分析全般についての興味が最も昂進していたときに、氏の『新しい精神分析』も読んだのだけど、これもあまり面白かったという記憶がない。というか、日本の分析家の中では故小此木圭吾先生直系ということらしいけれど、この日本における精神分析の中心におられた先生の書いたものにも、興奮するほど面白いと思ったことがなかったりする。

この『心のマルチネットワーク』の中で氏は、精神分析に対してやや辛めのスタンスをとっているように感じられるが、聖路加国際病院の紹介欄あたりを見ると、精神分析家の看板をはずしているわけではなく、まあ、分析理論に対しても是々非々の立場を保とうとしているといった感じか。

しかし、こういう立場というのは実のところ、面白いとはいえない。是々非々、というのは、是と見たことは是として、新しい理論の中に組み入れていきましょう、ということだろう。その時、その是非、という判断は、問われている理論の外側の理論(概ね科学)によってなされていることになる。しかし、私見ではあるが、精神分析の“本体”の部分というものは、そのような外側の理屈でもって、あれは正しくこれは間違い、などと言うようなことに意味がない。

以前にも似たようなことを書いたが、精神分析においてあれやこれやの理屈(理論)というのは、二次的なことであって、中心となるべきは、分析家--被分析者間におこる出来事にこそある。極端に言えば、治療室内、あるいは、教室内でおこる個々別々の出来事において理論の役割は、そのつど必要とされたりされなかったりする程度のもので、ことによっては理論とはなじまないような言動を分析家がとることもあるだろう。

ところでその似たようなことを毎日書いていた11月後半頃の記述にもあるように、私は、分析家というものは、弟子になる仕方(スキル)を身につけた者、と思っている訳で、ということは、なんであれ分析家は自分が依拠する理論でもって相手の言動を裁断するのではなく、どれほど突飛であろうと、その人が見るように見、考えるように考えてみる、つまり、その人のなりの世界の捉え方(理屈)を自らのものにしてみるような営みをこそ精神分析と思っている。そういった、精神分析家的立場からしてみると、読書にもまた、著者によってそこに書かれている通り感じ世界を眺めてみる(眺めてみようとしてみる)弟子的態度を必要とする。私がこれまで知りえた知識でもって、あの部分は正しい、この部分は怪しい、などという是非を論じることは、はなはだ精神分析的ではないということになる。

そういうわけで精神分析家を名乗る岡野氏ではあるが、私は上記のような精神分析家的態度を氏に感じることができない。「精神分析家の本」という期待を持って読む私が、これまで今ひとつ岡野氏の著書に面白みを感じなかったのはこんなところに理由があったのだろう。

精神分析的興味を持って読むと今ひとつの岡野氏の著書だが、精神分析家的立場で、つまり、「解離などの事例を多く扱う精神科医が臨床の役にたてるために脳研究の知見を利用して世界を眺めてみた」という見方で、これまでの自分の経験、知識を眺めてみると、これは結構面白く、この本の話題は、また他のことと繋いで取り上げたい。

結局、『心のマルチネットワーク』自体にはあんまり触れられなかった・・。