スタニスワフ・レム『ソラリス』国書刊行会

橋本治の著書に『「わからない」という方法』というのがあったと思うが、以前、「わからないもの」を「わからない」まま実体化したお話ってできないものか、などと考えたことがあって、もともとは、フーコーの『言葉と物』の冒頭の次のような部分

この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑いのなかにだ。いま思考といったが、それは、われわれの時代と風土の刻印をおされたわれわれ自身の思考のことであって、その笑いは、秩序づけられてたすべての表層と、諸存在の繁茂をわれわれのために手加減してくれるすべての見取り図とをぐらつかせ、“同一者”と“他者”についての千年来の慣行をつきくずし、しばし困惑をもたらすものである。ところでそのテクストは、「シナのある百科事典」を引用しており、そこにはこう書かれている。「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの(b)香のにおいを放つもの(c)飼いならされたもの(d)乳呑み豚(e)人魚(f)お話に出てくるもの(g)放し飼いの犬(h)この分類自体に含まれているもの(i)気違いのように騒ぐもの(j)算えきれぬもの(k)駱駝の毛のごとく細の毛筆で描かれたもの(l)その他(m)いましがた壷をこわしたもの(n)とおくから蝿のように見えるもの。」この分類法に驚嘆しながら、ただちに思い起こされるのは、つまり、この寓話により、まったく異なった思考のエクゾチックな魅力としてわれわれに指ししめされるのは、われわれに思考の限界、<<こうしたこと>>を思考するにあたっての、まぎれもない不可能性にほかならない。


あたりを読んで、いたく感動し(ということは笑えた、ということ)、そのへんから、映像化不可能な「わからないもの」を“えがく”こと、なーんてなことについてずっと頭の片隅にひっかかってのでありました。それとあと一つ、これは直接に関係しているようにも見えないのだけど、そこいらへんについて考え出す時、どうしても思い出すのが、ジジェクの『斜めから読む』で引用されてたハインラインの小説『ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業』の次の部分だったりする。

(あることのお礼に、この世界は神的な芸術家の作品のうちの一つだ、と事情通に聞かされたランドル夫妻は、夫妻が車で帰宅している間、この宇宙のちょっとした欠陥を修復するので絶対に窓を開けるな、と忠告される。道中、子どもが車に轢かれるという事故を目撃。最初は冷静を保ち、運転を続けるのだが、警官の姿を見ると義務感に悩まされ、事故のことを警官に知らせるために車を止める。ランドルは妻シンシアに窓を少し下げてくれという。)

シンシアはうなずいたが、次の瞬間、激しく息を吸い、悲鳴を飲み込んだ。ランドルは悲鳴をあげなかったが、あげたかった。/開いた窓の向こうには陽光も警官も子どももなかった。何もなかった。そこにはただ形のない灰色の霧が、まるで生まれたばかりの生命のように、ゆっくり脈打っていた。霧の向こうに街は見えなかったが、それは霧が濃かったからではなく、からっぽだったからだ。なんの音も聞こえず、何の動きも見えなかった。/霧は窓枠と溶け合って車の中に入ってきそうになった。ランドルは「窓を閉めろ!」と叫んだ。妻はその通りにしようとしたが、手が痺れて感覚がなくなっていた。ランドルは手をのばし、自分で把手を回し、ぎゅっとかたく窓を閉めた。/明るい光景が戻ってきた。ガラス越しに、警官、嬌声をあげて遊んでいる子どもたち、歩道、そしてその向こうにはニューヨークの街が見えた。シンシアは夫の腕に手をおいた。「車を出して、テディ!」。/「ちょっと待て」ランドルは体を強張らせたまま、脇の窓のほうを向いた。そして用心しながら窓ガラスを下げた。ほんのわずか、ほんの数ミリだけ。/それで充分だった。外には形のない流動体があった。ガラスの向こうには明るい道路や行き交う車がはっきり見えたが、窓の隙間から見ると、そこには何もなかった。

この、窓の外の形のない流動体、というイメージは、なんだか異様に頭にこびりついてしまってて、何故というに、そのイメージって「存在」そのものじゃないか、と感じられてしかたがなかったからでありました。何とは名指せないにしろ、なにやらわけわからないものがモガモガと蠢いている、というのは。

「わからないもの」を「わからない」ままえがこうとしたら、そういう感じになるんだろうな、とそれ以上にはたいして発展していかなかったのだけど、この度新訳となってあらわれたこの『ソラリス』の訳者あとがきをある時不図立ち読みしたところ、これが実に、「わからないもの」を「わからない」ままえがくこと、というずいぶん前からの興味にぴったり合致している様子だったのでとりあえず図書館に予約して回ってきたのを読んでみました。これが、まあ、期待に違わない、スーパーな名作。そして、レム自身が自作について語っている中に、徹底的に未知なるもの、をえがこうとして、こうなった、みたいなこと言ってて、それも実に興味深かった。

もちろん訳者も書いていることだけど、この『ソラリス』はソダーバーク流(観てませんが)にロマンスとしても読めるだろうし、タルコフスキー流(こっちは三回くらい観た。また観たくなってしまった)に郷愁ものとしても読めるだろうし、精神分析的にも永井均風哲学的にも、当然、よくある宇宙探検物のひとつとしても楽しく読めるのでしょうが、わたしにとっては、やっぱり、惑星“ソラリス”のわけのわからない現象を詳述した「怪物たち」という章が圧倒的に面白く、しかし、その部分はこれまで出ていた早川文庫の『ソラリスの陽のもとに』では訳出されてないんだと!(底本がバージョン違いらしい)。それだと、大幅に割り引いた感想になっちゃうのは間違いなさそう。や、よかった。国書バージョンで。レムコレクション、買いたくなってきたところが怖い。