植島啓司『宗教学講義』

教授とゼミ生らしき女生徒による一対一の授業という対話形式をとっている本書。そういう形にしている意味が今ひとつよくわからない。内容の薄さを水増しするため、というのと、一応新書(ちくま新書)ということで一般読書人にわかりやすくするため、ということ意外に何か深い意味があるかも、といった感無きにしも非ずですが、おいらには見抜けませんでした。

パッと読んだ感じではそれほど目新しいところはなかったのだけど、一箇所、ぐっときたとこをメモ。

インドネシアあたりの祭りで何かが憑いたようになっている人、トランスに入り込むような人がいるのはなんで、というような話題になっている)

(女生徒)・・いったいなぜトランスに入った人はあんなにぶるぶる震えたり、何かを叫んだりするんでしょう?

(教授)それはですな、超自然の悪意に対抗する唯一の手段は人間の錯乱状態だからなんです。われわれが本質的に自分自身の意味を懐疑するためには、われわれ以外のものにならねばなりません。われわれ自身であろうとすると、一切は闇に閉ざされたままなんですから。

(女生徒)でも、われわれ以外のものになろうとすると・・・

(教授)自分では何も伝えることができなくなる。

(女生徒)どうしたらいいんでしょう?

(教授)たとえば、超自然を相手にする場合、まず、それが必ずしも自分に好意的ではないということを知らねばなりません。天変地異、流行病、飢饉など、さまざまな形で攻撃を仕掛けてくる。いかに人間の側で工夫を凝らして対抗手段を考えても効果はゼロ、すべてが相手の術中にある。さて、どうしたらいいでしょう?

(女生徒)はあ。

(教授)そういうときに有効なのは、われわれが意図的に選び取ったのではない、つまり、偶然に選び取られた行動規範に従うことなのです。それによって、通常の思考状態からほんのわずかジャンプすること、ルーティン化された思考の罠から逃れること、それが大事なのです。それによって、初めて、まったく意外な選択肢を発見するに至るのです。

(女生徒)そんなことができるんですが?

(教授)できるかどうかわかりません。でも、トランプでもゲームの合間に必ずシャッフルするでしょう。あれと同じことですな。

(女生徒)カードを切り直す・・・

(教授)さよう、超自然を相手にするには人間の計らいなんてちっぽけなものなんです。それより何を考えているのかわからないように振舞うべきなんですな。

(女生徒)めちゃくちゃに、ですか?

(教授)ええ、オマール・K・ムーアは、アメリカのナスカピ・インディアンの卜占術について述べながら、水牛の肩胛骨でする占いは、結局のところ、部族の個々人の経験的な思考と最終的な決定との間の因果論的な結びつきを切断するか、または、弱めるために行われるのだ、と論じております。

(女生徒)つまり、小賢しい判断力を一時的に捨てさせるということですね。

(教授)もともとひどい飢饉に襲われてのことですから、従来の知恵ではどうにもならないわけです。で、彼らは次のような順序で狩猟の手順を決定します。ドラムを叩くこと、歌うこと、ただひたすら夢を見ること、そして、水牛の肩胛骨で占うこと。そこには思考の入り込む余地はありません。

(女生徒)占いって、そういうことだったんですのね。

(教授)ええ、元来占いには二つの重要な問題が含まれているのです。ひとつは、人間の内部に超自然の側から送られるメッセージを読み取る「高感度な器官」が存在するかどうかという問題。もうひとつは、外界のパターンを認識して、それを人間の精神内部のパターンと結びつけて理解しようろするきわめて構造論的な考え方です。

・よかれ、と思ってすること、例えそれが科学的裏づけのあるものだとしても、それが思わぬ災厄を招いてしまうということはよくあることだ。ましてや、日常の生活、人間関係の中で、個人的経験則をばかりをあてにした「よかれ」が、当人含めてそれに関わった人々の行き詰まりを招いているということはままあるだろう。中井久夫先生もどこかで書いておられたが、そういった行き詰まり、行き辛さ、の打開のために、たまたま出っくわした偶然事を利用することは結構大事なことで、ユング派は確かにそのへん掬い取っていて、簡単にあいまいだオカルトだと無視はできないのだと思う(もちろんそれだけじゃありませんが)。

・ここで「小賢しい」とか「ちっぽけ」とか言われている人間の「判断力」や「思考」といったものは、それがあってはじめて「めちゃくちゃな行動」なるものを可能にしているのだろうし、また、「めちゃくちゃな行動」が凝り固まった「思考」に力動を与え、新たな「思考」を生む、ということで、教授が『偶然に選び取られた行動規範に従う』と言うのも、それはまったき「めちゃくちゃ」というわけではなくて、偶然に選ばれたのではあるが、行動“規範”へと格上げされる、という含みがあるんじゃなかろうか。そんな細かなことまで考えてもなさそうですが。