植島啓司『聖地の想像力--なぜ人は聖地をめざすのか』②

P121
パエロ・コエーリョ『星の巡礼』からの孫引き

旅に出る時は、われわれは実質的に、再生するという行為を体験している。今まで体験したことのない状況に直面し、一日一日が普段よりもゆっくりと過ぎてゆく。つまり、子宮から生まれてきたばかりの赤子のようなものなのだ。だから、まわりにあるものに、普段よりもずっと大きな重要性を感じ始める。生きるためには、まわりのものに頼らねばならないからだ。困難な状況におちいった時、助けてくれるのではないかと思って、他人に近づこうとするようになる。そして、神が与えてくれるどんな小さな恵みにも、そのエピソードを一生忘れることがないほどに大感激したりするのだ。

・11月27日付け当日記参照。生き直す、生き直してみる、ということ。「恵み」は、どうして「私」にもたらされたのか合理的(世俗的)理由がわからない。そこに「恵み」をもたらす「神」が要請される。

・上のような記述は、すでに十分な「恵み」がもたらされているがために可能となっているのはずなのだが、そこにある「恵み」は所与のもの、あたりまえのもの、となって「恵み」であるとは見なされない。そこに「恵み」がある、と知るための「旅」「巡礼」「移動」あるいは「師」への額ずき、「放下」などなど。

・「敬虔」「謙虚」とは、そのような「旅」なくして生まれない概念なのだろう。


P135

毎週のように繰り返されるヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれる行事に加わってみた。イエスが十字架にかけられる最後の日をそのままたどる行事で、エルサレム北東にあるエッケホモ教会から聖墳墓教会までを行進するのである。途中に14のステーションがあって、そこで起こったことを黙想しながら進む。その14は以下のとおり。

01 イエス死刑判決を受ける。「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った」(ヨハネ18:28)

02 イエス、十字架をかつぐ。「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した」(ヨハネ19:16)

03 イエス、十字架の重みに倒れる。「慰め励ましてくれる者は、遠く去った」(哀歌01:16)

04 母マリアに会う。「道行く人よ、心して、目を留めよ。よく見よ。これほどの痛みがあったろうか」(哀歌01:12)

05 クレネ人シモン、イエスに代わって十字架をかつぐ。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出てきて通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(マルコ15:21)

06 ベロニカ、イエスの顔を拭う。「主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように」(民数記06:25)

07 イエス、二度目に倒れる。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い」(イザヤ63:09)
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いずれの場面でも、イエスをめぐるエピソードとエルサレムの実際の場所が呼応しているのがわかる。たとえば、07ステーションには「判決の門」があって、そこにはイエスの死刑判決文が貼り出されている。ここに立っただけで、イエスが出会った受難を追体験することができるのだ。このように聖地では神話と場所が密接に結びついて一種のメモリーバンク(記憶装置)としての役割を果たしている。(定義06)。すなわち、そこにはあらゆる移動の記憶が含み込まれているのである。


港千尋『記憶』P70

古代ギリシャで誕生した記憶術は、特定の場所にイメージを貼りつけることによって、ある議論や出来事を記憶する技術だと要約することができるだろう。


同書P68

1971年英国の研究者オキーフは、ラットの海馬体の中に、場所に特異的に反応するニューロンがあることを報告した。今日「場所ニューロン」と呼ばれるこの細胞は、ある場所に行ったときにだけ発火するものである。・・・/・・・「場所ニューロン」が興味深いのは、それが海馬体で発見されているということだ。海馬体は大脳辺縁系にある記憶の中枢なのだが、ここはまた情動にも重要な役割を果たしていることが知られている。情動反応と場所の記憶が解剖学的に近接しているという事実は、いわゆるエピソード記憶と呼ばれる種類の記憶における、場所情報の重要性を間接的に説明していると考えられるのである。

・聖地の定義01と02はこうであった。
『01 聖地はわずか一センチたりとも場所を移動しない
02 聖地はきわめてシンプルな石組みをメルクマールとする 』
特徴的な巨石や岩のある場所は、古来、「聖地」となりがちであったというのは、それが「動かない」ことで、「見慣れる」「見覚えがある」(あるいは「気付く」)という契機を呼び覚ましたからだろう。獲物、食料を追って、雑然混沌たる自然の中に、動かない目印として存在する巨石。それが見える場所はこうだ、という既知感。安定。「ホーム」の原初的(本能的)在り様。



『聖地の想像力』P85

・・・時間や空間が均質で一定であるというのは非常に近代的な考え方であって、かつては時間や空間にはかなり極端な濃淡があったのではないかと思われる。/たとえば、時間に関していえば、古代ローマの暦などいろいろな暦が存在するが、古代の暦では冬は時間が流れないことになっている。古代ローマの暦では、一年は十ヶ月で、冬の二ヶ月はまったく時間が流れなかった。・・・/・・・このことは空間に関してもまた同様で、かつては聖なる場所を結んだ線こそが空間認識の基本であった。聖化されていない場所は存在しないと同じだったのである。かつての地理学は聖地と聖地を結んだ距離を測るものでしかなかった。・・・

・「宇宙の果て」や「ビックバン」なるものを想像してしまうような「時間」や「空間」意識もまた、それ以前の原初的な人体構造のしからしむるところによって段階を踏まえて構成されてきたものだ、ということ。それを抜きにした「真実」「真理」「ほんとうのこと」なるものの探求は上げ底であると心しておくこと。