植島啓司『聖地の想像力--なぜ人は聖地をめざすのか』①

2000年にこの本が出た時、新宿の住友ビルに入ってる本屋で平積みになってるのを見かけ一瞬買おうかと思ったけど、もう少し中身を詳しく見て検討しようと結構細かく眺めて、結局その時はいま一つピンとこなくて模様眺めということにしたのが、このところの興味の流れで、そんなような本があったなあ、ということを思い出し早速借りて読んだところ、うーん、すばらしい。やっぱり最初の勘を信じておけばよかったと反省する。次に古本屋で見つけたら買うことになるはず。

とりあえず後々の記憶のための標識ということでメモ中心に。



目次
01 聖地の定義
02 石組み
03 この世に存在しない場所
04 ドン・ファンの教え
05 もうひとつのネットワーク
06 巡礼
07 世界軸 axis mundi
08 二つの聖地
09 夢見の場所
10 感覚の再編成



聖地の定義
01 聖地はわずか一センチたりとも場所を移動しない
02 聖地はきわめてシンプルな石組みをメルクマールとする
03 聖地は「この世に存在しない場所」である
04 聖地は光の記憶をたどる場所である
05 聖地は「もうひとつのネットワーク」を形成する
06 聖地には世界軸 axis mundi が貫通しており、一種のメモリーバンク(記憶装置)として機能する。
07 聖地は母体回帰願望と結びつく
08 聖地とは夢見の場所である
09 聖地では感覚の再編成が行われる



アボリジニの聖なる物質「チュリンガ」(いくつかの円とそれらをつなげる破線や波線が描かれている石)について。

チュリンガの主要な目的はメモリーバンクということだ。それはオーストラリア原住民のあいだで見出されたビジュアルな記憶装置なのである。/それは巧妙に考え出されたアナロジー・システムを通じて多元的に機能する。それは、美しいグラフィックであると同時に口誦伝承のシナリオであり、空間的な認識を可能にする地図でありながら同時に性的隠喩をも含み込むといった具合にである・・・。/・・・ナンシー・D・マンに言わせると『デザインは自分自身(身体)の外側に社会的フォルムとして存在している。それに対して、デザインがそこから生まれる夢のイメージは、自分自身(身体)の内側に閉ざされたプライベートな経験である。デザインは夢の潜在力を社会的フォルムとして保ちつつ、それをダイレクトな感覚的経験を通して個人の意識へと還流させる』というのである。・・・/・・・同じく人類学者のヴィクター・W・ターナーはこうした象徴の多様性についてさらに次のように論じている。『そうした象徴は、視覚的であれ聴覚的であれ、文化的には記憶装置として機能する。そして、コミュニケーション・エンジニアが保有するような情報の「葡萄酒貯蔵庫」の役割を果たす』と。そうした意味では、ストーンサークル(環状列石)からカテドラルに至るまで共通した機能を持っている。

・チュリンガのアナロジー・システムが「巧妙に考え出された」ように見えるとしたら、それは、人間が考え出した、と言うよりも、人間の構造がそうせざるを得ないようにできていた、ので、実によく(巧妙に)社会の中でも機能している、ということだろう。

・「夢」(内)から「デザイン」(外)へ、また、「デザイン」が「夢」の中へ、という還流は、圧縮や置換といった「夢の仕事」そのものとも言える。内的体験・感覚はある種の「デザイン」(象徴)を獲得するが、「デザイン」はまた別種の「内的体験・感覚」を呼び起こす。

・「デザイン」には「デザイン」を発生させる前段階の仕事がある(“本”の“読み”というものに関する忠告として留めておくこと)。