新年早々景気よく

 数年前からとみに感じるようになってきてはいたのだが、まあ、親の老けること著しいったらない。それと対照的に甥っ子はむくむくとでかく育ち、人類の入れ替えは確実に進行中。

 紳助自粛のあとの初回『松紳』だったか、キム兄と千原ジェイアールを相手に松本が話していたことで、松本が好きなドラマ「パパと呼ばないで」のビデオをDVDへとダビングしようとして、ふと、死ぬまでにあと何回見るにしても、何千回と見るわけじゃあるまいしDVDにうつしても意味がないんじゃないかと思った、みたいなことを喋り、客を引かせていたんだけど、そういう気持ち、すげーわかるところがある。

 だいぶ以前、『ガキ』の罰ゲームで早朝に松本一家総出で『松本レンジャイ』をやったときも、親父さんの耄碌っぷりはともかく、楽屋裏での家族の昔話をしている様子が、猛烈に郷愁というか、(そうそう、みんなこうやって歳とってくんだなあ・・)という慨嘆というか、暮れかかってる松本家に漂っていた哀切な感じが、そっくりそのまま我が身我が家へと思いを至らせ、そうして今、同時代を生きている赤ん坊を含めた同世代の人間たちもまた・・・はああ・・、というような思いに囚われたことを思い出した。

 こういうことを考えているときは、自分の姿もその図の中に入れているつもりでも、やっぱりどこか特権的視座から一望俯瞰で時間を捕らえ、あるとき突然、あ!俺もうこんな歳だ、と軽い衝撃を食らうのでありました。

 肉親というものの怖いところは、一人でいればそういう特権的視座に立って他人の老化や成長をそういう変化する「対象」にしていられるのが、親や、とりわけ「子ども」って、その「視座」そのものに深く食い入ってきて嫌も応もなく変化の当事者として遇されるところがあるようで、だから自分の誕生日より正月帰省したときのほうがはるかに歳をとったという感に襲われやすいのかもしれない。

 ほんの二晩ほど泊まってくるだけなのに、なんだか糸を引くような粘度の高いなにものかに憑かれた、溶け出しかかった、ようなところがある。いいものなのか嫌なものなのか、なんとも言えない気分ではある。