時間と空間

23日に盗まれた財布(http://d.hatena.ne.jp/fkj/20041224)については、やっぱりなんだか色々と考えてしまうところがあって、今日もそこから始めてみます。

あの時、(これは多分やられてしまったらしい)と、半ば否定したくありつつも盗まれたと認識したあの瞬間、どういう訳だか浮かんできた言葉があって、それは、内田樹師匠が現在進行形で考察しているというレヴィナスの時間論について書いていた12月22日付けプログでの引用文、

未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捉えるものなのである。未来とは他者なのだ。

だった。これこの通り思い出した、というのではなく、(あれ?これはあれか、レヴィナスの、あの、あれだ、・・・あああ、未来って容赦ねえなあ)、みたいな。事件はすでに起き、過去のこととなっていたのではあるが。

財布を盗られていなかった時点では、まさかそんなことが起こるとは思ってもいず、その金をもとにどこそこに行ってどこそこで支払いしてあれやってこれやって明日はこうなって週末年末お正月はこうこうで・・・、という大まかな予測というか予測とも言えないほどの、そうあるだろう図、に包まれており、それは、1、2、3、4、5、6、7、8ときたら次は9だと考えるまでもないのといっしょで、『未来というかたちをとった現在にすぎ(レヴィナス)』なく、あのような痛打があったことではじめて“未来”を感じたところがあった。未来という他者、と言ったほうがいいか。

内田はその日の記述で次のように書いている。

私たちは通常、時間を空間的表象によって記述する。

頭の中に「時計の絵」を描いて、例えば「12時から3時までは3時間」というふうに、時計の針が90度進むアニメーションを空間的に表象して、「時間を把持した」気になっている。

だが、このとき時計の針を見ている「視線」は誰のものなのか?

それはどこに「ある」のか?

それが時間軸上の「どこか」に定位され、その特権的視座からは「時間が一望俯瞰される」ということが前提されてはじめて、「針がカチカチと動いてゆくアニメーション」は想像可能となる。

つまり私たちが考想する時間概念はそのつどすでに空間的表象によって「汚染」されているのである。

これ読むと、拾い読みじゃなくじっくり腰を据えてベルグソン読みたくなるけど、それはまた別の機会に取っといて、ともかく、ことが起こるまでの私は、今という時点から一望俯瞰的に未来をまで把握した気でいたわけです。そして、そのような把握は、予測とも言えないほどの予測、そうあるだろう図となって、さっき“包まれた”と書いてしまったように、心配のない空間、保護空間、とでもいった空間を構成していた。そのような空間に住まうことで安心を得ていた。未来の他者性、時間の他者性、というのは、そのような時間の空間的把握、保護空間を反古(保護を反古。なんちゃってれぇ。)にしてしまうところにあるのだろう。

ところで、そのような保護空間に外傷(フロイト他)、あるいは侵襲(ウィニコット)、を受けた私は、なんとも言えない悔しさとともに、別の未来予測図の中の一こまとして、また、犯罪者というものについて、また、防犯意識について、また、金は天下の回り物ということについて、あるいは・・・・と様々な意匠を凝らして外傷の回りに考えを積み上げていこうとする。今日の記述も含めて。結果、大事なものに対する注意(防犯意識)や、だれ気味の活動へのカツ、などといった意味をその外傷に与え、以前とは違った予測とも言えないほどの未来予測図、そうであるだろう感、安全感、保護空間につつまれ生活している。そこには未来の他者性は含まれない。未来の犯罪に備える、といった意味の防犯意識というものは、未来を予測の範囲に囲い込むもので、保護空間内部の問題となり、未来の他者性はそこからはじき出される。

かように私の財布盗難事件は、私の歴史のひとコマとして様々な意味連関の中に位置付けられるわけだが、そのような迂遠で抽象的で、ある意味暢気にも見える位置付け作業を行えたのは、そのような出来事では崩れぬ保護空間が生き残っていたからこそであると言える。たとえば、財布どころか、火災などで全財産を失う、とでもいった事件と出くわしてしまったとしたらどうか。そんな理屈付けをしている暇も気力もないことだろう。腕を失う、愛する者を失う・・・それもまた同断。

思わぬ事態を引き起こし、私たちの保護空間に亀裂を入れる、今としての未来ではない、未来中の未来、時間の他者性に、人はよく耐えられない。そのような事態に曝され続けることはできない。私たちは、安心できる空間の中でおいてはじめて、その外傷について思考し自分史の中に位置付けることができる。困難に思考で対処することは、ある保護された空間が必要なのだ。というより、「空間」とは、そのような「思考」を可能にする保護機能についての謂いではないか。だから人は時間概念を『そのつどすでに空間的表象によって「汚染」』させる。さらの「時間」に曝されるようには、人間はできていないのである。

昨日の津波のニュースで見たのだが、両親と弟と連絡がつかずに一人になった少年が写っていた。思わぬ未来、つまり、本当の意味での未来、と出くわし呆然とした顔をしていた。泣くわけでもなく、慌てるでもなく、呆然。私たちが破滅的体験をした人にたびたび見る、「なにも考えられない」顔。

クオリアの議論(http://d.hatena.ne.jp/fkj/20041218 及び http://d.hatena.ne.jp/fkj/20041219)はこの顔に届かない。壊滅的な傷を被ったものは、何を感じているかもわからない(今、君はどんなクオリアを持っているの?どんな感じするの?、とでも聞いてみればいい)。そのような、感じ考えられる以前の状態に留まる彼らへとは届かない議論のどこに人の「心」の解明の鍵があるというのだろう。