スティーブン・キング「ペット・セマタリー」

キングの長篇は「シャイニング」だけ読んだことがあって、あと短編がいくつか。廃車に頭をはさまれたじいさんの話、みたいなのと、でぶ嫁と小男の結婚式によばれたジャズマンの話、みたいなやつの印象が軽く残ってる。後者はホラーというよりコメディっぽかったような覚えがあって、「シャイニング」読んだときより、キングすげー、と思った。たしか早川ポケットミステリの中のローレンス・ブロック編集の短編集かなにかに入ってたはず。

ホラー小説の正確なところはよくわからないのだけど、まあ「恐怖小説」ということで、読んで怖い小説、といった感じでよろしいのでしょうか。ただ、読んで恐ろしくなる小説、というのはありえるのか、という気がしないでもない。「シャイニング」を読んだのも、どこかで「映画も怖かったけど映画なんか比較にならないほど原作のほうが怖かった」みたいなことを書いてる人がいたので、それは読んでみたいと読んでみたのだけど、どうも、どこが怖いのかはわからない。それなりに面白かったけど。

この「ペット・セマタリー」も、養老孟司先生がwowowのインタヴューとか雑誌の記事とかあちこちで取り上げてて、何をいってたのかほとんど覚えてないが、人間こそが怖い、とか、何かわからないのが怖い、とか、とにかくおいらの中には、いわゆる「ホラー」につきものの、怪異、の無い、怖い話、というイメージが出来てしまって、そういうのなら読んでみたい、と読んでみたところ、きちんと・・・きちんと?、まあいいや、きちんとこの本にも怪異は出てきたのでありました。怪異が出てきたから、という訳ではないのでしょうが、これもやっぱり怖くはなかった。怖い、というより、はらはらどきどき。時々、気持ち悪い、みたいな印象。気持ち悪い、っていうのは血だとか屍臭だとか折れてしまってくるりと回っちゃう首、だとかそういうところが気持ち悪い。はらはらどきどき、というのは、ほらほら主人公、そっちいっちゃまずいだろう、そこは危ないぞ、というはらはらどきどきで、いずれにしろ「怖い」というのとは違う。

「シャイニング」の映画版にしろ、サム・ライミ監督のものにしろ、いわゆる「ホラー映画」というのも、首チョンパ、血飛沫ブワー、肉片ピチョピチョ、という気持ち悪さや、いきなりな大きな音とか急な撮影対象のアップ、といった驚かしが、人によっては「怖い」ことになるんでしょうが、そういうのはあんまり「怖い」という感じがしない。

映画で「怖い」という意味でいい線いってるのが、貞子in「リング」とか、「呪怨」といった邦画でしょうか。岸田劉生の絵とか掛け軸の幽霊の絵の不気味さというのは、それら邦画と繋がっているところがありそうでもあるけれど、あれって、日本人以外が見ても「怖い」のか。

具体的な体への危害(危なそうな奴に絡まれる、とか、高いところから落ちそうになる、とか)以外で、「怖い」経験といって思い出すのが、一年くらい前だったか「発掘あるある大辞典」で今のようなゲストだけがスタジオにいる形ではなくて、視聴者代表、みたいな人々が十何人かひな壇に座っていたときのこと。オープニングでその日扱う内容みたいなビデオが流れ、それでは今日のゲストを紹介します、とスタジオにカメラが切り替わった。そのとき、ちらっと映った視聴者代表のうちの二、三人がなーんか変。この時点でなにかざわざわ胸騒ぎがした。カメラはゲスト中心に写しているのでその変なところがよく確認できない。それでも注意して画面を見つめていると、そのおかしく感じていた人の姿だけが白黒になってて、これ発見したときには、「おわ!」、とかなり驚いた。実際は等身大の写真パネルを置いていただけだったのだが、それでも司会者たちはゲストの紹介が終わるまで、そのパネルのことに触れようとしないし、あれはかなり「怖い」ところがあった。

また、似たようなものに、黒沢清が監督した、映画ではない、テレビドラマ用の映像で、ファミレスからある登場人物が出て行こうとするところ、ぴったりと後を追ってぼんやりした女の影が通り過ぎる、というシーンがあり、あれにも少々、ビク!、ときたし、そのドラマには、もう一つ忘れられないシーンがあって、森の中をカメラに向かって少女が走ってきて通り過ぎてく瞬間にカメラが切り替わり、走り去る後姿は少女と同じ衣装を着た成人男性になっている、というのにも一瞬「ウワ!」とさせられ、すぐにげらげら笑い出した。

たぶん笑えるのと怖いのの間は地続きなところがあり、以前、現場で高いところから後向きに墜落しそうになったところを間一髪助かったときなんかも、ゲラゲラ笑ってたら、見てた人から笑ってる場合じゃないと怒られたことがあった。

そういえば伊東潤二あたりのマンガも、個人的には、もう一押しほしいギャクマンガに見えてしまうところがある。

「笑える」ことと「怖い」こと、の境についても興味がわくが、そこはひとまずおいといて、「あるある」の白黒パネルや、黒沢の映像のどのへんを「怖い」と思ったんだろう。どのへん、というか、なにが「怖い」と思わせた、と言ったらいいか。

心霊写真を見ていて「おわ!こわ!」となるのは、写っているはずのないもの、それを撮影した文脈にはないはずのもの、が写っていると「発見」した瞬間だ。で、その写っているはずのないもの、というのがただの赤い光であったりするより、人、それも人の顔、であったときのほうがびっくりさせられる。

「あるある」も黒沢ドラマも、見ているこちら側としたら、ありえないはずのもの(者)、文脈から切り離されたもの(者)、を「発見」させられるという形になっていた。つまり、「怖い」ものとは、こちらが文脈の流れに沿って見ようとしていたもの、を越えるもの、と言えようか。

「怖い」ものを見るのが「怖い」というのは、そういう文脈を越えてしまったものを「発見」するのが「怖い」。「発見」が「怖い」。いままで見ていなかったように見えてしまうということが「怖い」。

なんだか舌足らずなところに着陸したけど、何かどこか大切なところと繋がっていくようなところがありそう。