茂木健一郎インタビュー

昨日の続きです。

mixiメールでライターの雲泥斎さんから茂木さんのインタヴューのあるページを教えていただいた。

http://www.mammo.tv/interview/144_MogiK/

上のページと、雲泥斎さんとのいくらかのやりとりで、茂木さんのクオリアに関する議論のどこに隔靴掻痒感を感じてしまうのがはっきりしてきたように思える。私が茂木さんに脱いでくれ、と思ってしまう「靴」というのは、ほかならない「クオリア」であった。

インタビューページの2ページ目に以下のような発言が見える。

「普通」と言われる脳を持っている人も、他人の心が絶対にわかるはずはなく、「わかった」と思えるのは、「わかったことにしている」だけです。それがクオリアの問題として重要で、自分のクオリアが他人のクオリアと同じがどうかわからない。絶対的に他人の心と断絶していて、絶対にわかりようがありません。

赤いリンゴのあの感じ、ワーグナーの楽曲を聞いたときのあの昂揚感、技が決まったときのあの感覚、そういった様々な「クオリア」が他人と同じがどうかは絶対にわからないと言う。そこまではいい。が、「クオリア」もまた「クオリア」と同定する『クオリア』がなければ茂木さんも、そもそもそんなことを言う気になんかならなかったろう。かくして茂木さんの言う「クオリア」もまた、私のそれと同じかどうかわかることが決してない。決してないにも関わらず「クオリア」に関してだけは何事かが私たちに伝わるかのように言ってしまっている茂木さん。私の感じでは、そのような「靴」(クオリア)も脱いで裸足にならない限り「クオリア」に通じることはできないと言いたいところがある。

そして、そのようなわかりあうことが不可能な「クオリア」についての「お話」を何故するのか、と言えば、人間は交換していないといられない動物だから、という内田の語るレヴィ=ストロースの言葉をさしあたっての疑問の蓋塞ぎとしてこの項は収めておこう。

雲泥斎さん、個人的にすっきりさせてもらいまして大変感謝であります。