茂木健一郎「脳と仮想」

十月後半あたりに続けて書いたように「空想」や「妄想」といった問題について一方ならぬ興味を持っているところに、「仮想」なる気を引くタイトルのこの本が安く手に入ったので「クオリア」に関する勉強も兼ねて読んでみました。これがまた痒いところに手が届かない隔靴掻痒なつっこみどころ満載。まだはじめの二章しか読んでませんが、気になるポイントがありすぎるのでメモしときます。

①「クオリア」について茂木はこんな風な説明をしている。

P19
人間の経験のうち、計量できないものを、現代の脳科学では「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。
(・・・)
およそ意識の中で「あるもの」と他のものと区別されて把握されるものは、全てクオリアである。

赤い色の感覚、水の冷たさの感じ。そこはかとない不安。たおやかな予感。私たちの心の中には、数量化することのできない、微妙で切実なクオリアが満ちている。私たちの経験が様々なクオリアに満ちたものとしてあるということは、この世界に関するもっとも明白な事実の一つである。

ところが、科学は、私たちの意識の中のクオリアについては、その探求の対象としてこなかった。探求の対象にしたくても出来なかったのである。一体、脳という物質に、なぜ心という不可思議なものが宿るのか、その第一原理を明らかにする努力を科学は怠ってきた。方法論的に歯が立たなかったのである。

そのように「クオリア」を扱えない「科学」が何を扱っているのかと言うと、小林秀雄を引き合いに出しながら「計量化できるもの」「数値にできる客観的な物質の変化」であると言う。

ところで「クオリア」に関する説明部分には『計量できないものを、現代の脳科学では「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。』と書いてあって、そもそも科学の探求の対象からこぼれおちたものを「クオリア」と呼ぶようになったっていうのに、科学はそれ(クオリア)を対象にしたくても出来なかった、って・・・おかしくねえ?。科学は別にそれ(クオリア)を対象になんかする気はなく、端から目もくれずにいたから、事改めてそれを「クオリア」などと呼ぶようにしたんじゃないのかい。すくなくとも茂木の説明からすれば、科学の探求の対象になった時点でそれは「クオリア」ではなくなるということで、そんなもの科学的方法論で歯が立たないのはあたりまえじゃないか。

P43
・・私たちの生活体験は、現実と仮想の織り成す布のようなものである。
(・・・・・)
「オレは田中さんはこういう人だと思っていたのに会ってみたら全然違っていた」

ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでみたら、私が想像していたのと全然違っていた」

というような場合、この世界のどこにも存在しない「私が思っていた田中さん」「私が想像していた『罪と罰』」は、現実には存在しなかったものとしてあっさり忘れ去られる。

現実こそが生きる上での関心事だと信じているからである。

こんな現実があるのではないか、と思い巡らす仮想は、現実と衝突し、そうではなかったと判った瞬間に現実との椅子取りゲームに負け、闇へと消えていく。そのような仮想が、振り返られ、愛しまれることは、この実際的な現代では、滅多にないのである。

ここでの「現実」と「仮想」についての描き方には、時間的な経過が含まれている。「私が思っていた田中さん」や「私が想像していた『罪と罰』」は、「現実」に出会うことで「仮想」になってしまっている。しかし、そのような「現実」に出会わない時点での「私が思っている田中さん」や「私が想像している『罪と罰』」があったはずである。さて、その時の「私が思っている田中さん」「私が想像している『罪と罰』」は仮想なんだろうか、現実なんだろうか。私はそれを「現実」であると言いたいところがある。「田中さん」に関して言えば、すくなくとも「私がなにごとか思う」程度には田中さんと関係があり、その「私が思っている田中さん」というのはその時点での「現実」の田中さん像であることは間違いないのではないか。それを「仮想」などと言えるのは、「私の思っている田中さん」像に変化が生じたことの効果であろう。つまり、

仮想は、現実と衝突し、そうではなかったと判った瞬間に現実との椅子取りゲームに負け、闇へと消えていく

のではなく、椅子取りゲームに負けたものを「仮想」、勝ったものを「現実」と、私たちは見なしているのである。(『私たちはほとんど常に重要なことについては原因と結果を逆転させる』内田樹「他者と死者」P170

ついでに言えば『現実こそが、自分が生きる上での関心事だと信じている』といったように「現実」や「仮想」という所与があって関心を持ったり持たなかったりするのではなく、「生きる上で関心があることをめぐって“現実”や“仮想”が構成される」と言ったほうがことを正確に表現しているのではないか。

P55
外部世界を見るとき、私たちは、色や形といった現実の属性に、様々な解釈を貼り付ける。若い女にも老婆にも見える有名な「両義図形」がある。図を構成している白から黒への様々な階調からなる色は、確かに外にある現実を反映している。一方で、それを若い女、あるいは老婆とする解釈の方は、一つの仮想である。仮想であることは、白や黒といった色の感覚に比べて、それを若い女や老婆と解釈する心の働きの方が、何とも抽象的でとらえどころがないことでも判る。実際、若い女と見ても、老婆と見ても、図を構成する白や黒の色の感覚は、確固として揺るぎない存在であり続ける。それに対して、若い女、あるいは老婆という仮想は、何だか頼りない。この頼りなさこそ、「若い女」あるいは「老婆」という概念が目の前の現実に束縛されない自由な概念の空間の中に所属していることの証左である。

ここの「両義図形」の説明にも時間が含まれている。「若い女」あるいは「老婆」に見える図形に「頼りなさ」を感じるのは、どちらかに見えていた図が、別のものへと見えてしまうという時間的推移、見方の変化があり、その効果が「頼りなさ」をかもし出すのだろう。いくら見ても「若い女」にしか見えない人にとって、その「若い女」は「白黒」と同じく確固として揺るぎない存在ではないのか。

また「老婆」「若い女」間に時間の要素を取り込んで「頼りなさ」を見てしまえるのなら、「白黒」の間にも「頼りなさ」を見てしまっても不思議ではないだろう(さしこむ光の加減や、心身の不調で別の色を見てしまうこともあるはずだ)。

このように「白黒」の質感のほうが、「若い女・老婆」より『より現実を反映している』とは言い難いように思える。

④この本においては小林秀雄が問題としていたらしいことについて一章が割かれていて、未完のベルグソン論「感想」も取り上げられている。

ところでベルグソン本人だったか、小林経由のベルグソンの言だったか、他からの聞きかじりだったか、ベルグソン絡みの言葉に『質なき数(量、だったかな?)の観念はない』とかいうのがあったような覚えがあって、それだと「数」もまた「クオリア」の一つということなるだろう。

『人間の経験のうち、計量できないものを、現代の脳科学では「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。』そうだが、「計量」もまた「クオリア」の上に乗っかってするものだとすると、「クオリア」を土台とした「科学」が、「クオリア」を扱わない、扱えないのは当然のことになるだろう(自分の目は、自分では見れない)。

では、何が「クオリア」を扱うのか、と言えば、茂木がワーグナーや一葉や小林の「蛍のエピソード」を引用するように、それは「お話」によるより他扱えないのではないか。

茂木がこの本で触れている小林の苛立ちというのは、「数」という「クオリア」を元にした科学という「お話」だけが、世間で幅を利かせていることに対してではなかろうか。「数」だけが重要な「クオリア」なのではない、といったような。

ベルグソンの「意識に直接与えられたものについての試論--時間と自由」は、以前ootanyさんから借りて読み、こいつは手元に置いておかなきゃ、と買った別バージョンを引っ張り出して、関係するところを探すつもりで拾い読みしていたら、それはそれはもう、すばらしい「お話」に引き込まれ「脳と仮想」を放り出して夢中になってしまった。「物質と記憶」も今読んだら、以前よりもっと感動してしまうのは間違いなさそう。

ああ、でも他にやることが・・・。