内田樹「他者と死者 〜ラカンによるレヴィナス」⑤

ようやっと最終章へ。

この短い最終章だけでも山ほど学ぶところがあったが、とにもかくにも本書の締めくくりの部分をあげておきたい。

<神の裁きが完全であれば、皮肉なことに、人間たちの倫理性は衰微する。なぜなら、人間が倫理的にふるまう努力をしなくても、神の奇跡的介入によって、人間の世界は倫理的なものになるはずだからである。神が必ず勧善懲悪の「清算」をしてくれることを信じる人間は、仮に目前で不正が行われていても、それを糺す責務が自分にあるとは考えないようになる。だから、「月光仮面」が活躍し、悪が必ず滅びることが約束されている社会では、市民も警察も、凶悪犯罪が発生しても、そのことであまり心を痛めないようになる。なぜなら、犯罪を拱手傍観していても、いずれ遠からず「月光仮面」がバイクにうちまたがってすべてに決着をつけるために登場することは確実だからである。それは、福祉が充実し、どのような貧者も政府の手厚い保護を保障されている社会では貧しい人のために自分の家の扉を開く動機づけが弱まるのと同じ心理である。

神が完全管理する社会には善への志向は根づかない。(・・・)

レヴィナスは「神なき世界」における善の可能性について、短く美しい言葉を書いている。

『無秩序な世界、善が勝利に至らない世界における犠牲者の立場、それが受苦である。受苦が神を打ち立てる。救援のためのいかなる顕現をも断念し、十全に有責である人間の成熟を求める神を』

そのためには、私の暴力の犠牲者でもなく、私を天上から断罪する神でもなく、「罪を犯した」ことを自白する「<私>と名乗る他者」が、今ここにいる私に向かって有責的であることを求めるという非論理的な事況はこうして論理的に要請されるのである。 >

内田(レヴィナス)は、「善はどこにいったのか?、正義とはいずこに?」のような、芝居がかった嘆き節でもってするこのようなすっとぼけた問いを、粉砕する。粉砕しようとする。が、それは多分ある種の「作法」を持って読まない限り宛先に届くことはなく、師匠たちは「受苦」を受け続けることになるのだろう。

最終章では、死者と有責感と呪鎮の関係について、フロイトの「トーテムとタブー」を引き合いに出して説明する部分がある。この「トーテムとタブー」はまだ読んだことはないのだが、人類学的な問題の心理学的解釈、といってそれほど間違っていないだろう。

ほんで、これまた本人の著作を読んだのではなく、他からのダイジェストで知った程度なのだけど、メラニー・クラインには、児童への分析から積み上げた、子どもにおける良心の早期発達についての研究、罪悪感や償いの感情といった問題について著書があって、それって、やっぱり「トーテムとタブー」がヒントというか重要な参項になっているんじゃないかという気がした。

人類学的問題に関する理論が、どうして幼児の発達過程を説明するのに利用できるのか。それはそれで面白い考察に導かれそうではあるけれど(フロイト「モーゼと一神教」あたりとか)、今回はひとまずおいといて、これまで本日記上の言葉づかいの流れに沿った「罪悪感」の記述に挑戦してみたい。

母親との一体感にまどろむ幼児にとって、そこに「否」をつきつける「父親的存在」(現実の「父親」のみを意味するのではない)は、排除の対象となる。と、こう書くとすでに幼児的当事者意識、というか、当事者としての感じ方、からはだいぶん遠く隔たってしまっている。おそらく、幼児にはまだ「対象」がない。幼児には、ただ、母親のうちにまどろむ良い世界、と、それを壊す悪い世界、がなんの脈絡もなく交互にあらわれるのみであろう。

ここにクラインは、人間の本能的な働きとして、その「悪い」世界を否定する「妄想・分裂ポジション」という態勢があると仮定する。「悪い」世界をただひたすら拒否する態勢。また、ラカン的な言葉使い、ウィニコット的な言葉使いを引き込むならば、そもそも「寸断されていた身体」を「鏡像」によって、あるいは「抱えること(holding)」によって、ある程度のまとまりを得ていたところに現れた脅威によって、再びバラバラになってしまう体験世界、とでも言うべきか。

「良い」世界、と、「悪い」世界、は、ただただ交互に突然出現するのみで、世界は連続したものでなく、幼児はそれぞれまったくの別世界に放り込まれてしまっている、と言ったほうがいいだろう。

そこに連続線を引き込むのが、「気付き」ではないか。

はじめは、「良い」世界、と、「良い」世界、の間、また、「悪い」世界、と、「悪い」世界、の間、に、ピン!、と「同じ」を感じてしまう反応が、「良い乳房」「悪い母親」、といったような、抽象の第一段階を登らせる(対象の萌芽)。次に、「良い」世界、と、「悪い」世界、の間に、ふと「同じ」を感じてしまうことで、連続していなかった世界に、連続した「対象」(単に「乳房」「母」・・)が、あらわれる。

妄想・分裂ポジション」、あるいは、「寸断された身体」、は、人間に生得的なものであるので、時間的に連続して存在する「対象」が現れはじめても、機能し続ける。そこで、幼児は、その良くもあり悪くもある「対象」を「対象」と認めつつありながらも、「悪い」母親、を、一直線に「悪い」世界の出現、と捉え、拒否(バラバラにする。寸断する)してしまう。ところが、「悪い」母親は、「良い」母親、でもあることに気付き始めた幼児は、そのような拒否で、「悪い」母親ともども「良い」母親も消してしまったのではないかと恐れる。

「罪悪感」とは、たぶん、この「恐れ」に由来するものであろう。

非歴史的であった分裂した世界に連続線を引く「気付き」は、「悪い」ものをバラバラにしてしまう、消し去ってしまう、ような反応そのものに恐れを抱かせるようになる。

愛着の対象が消え去ることに恐れを抱きつつ、「悪い」母親には拒否的反応を見せてしまうということ。愛憎関係。

罪悪感は、「悪い」部分に対して致死的攻撃をすることを許さない。