ヒッキー

昼のニュースでちらりと見かけたが今日もどこかで引きこもりが親を刺したらしい。死にはしなかったようだけど。

引きこもりについては、夕方のニュースの特集でちょいちょいやっている長田とかいう怪しげなおばさんとか、斎藤環の著作をごくたまに流し読みする程度であまり詳しくは知らないけれど、それでも今現在の自分の目にはどんな風に見えるのか、といった備忘録、これまでの応用、みたいな意味で触れておきたいと思った。

どれほどの数の人間が今引きこもっているのか正確なところは知らないのだが、まあそれなりに社会問題化している程度にはたくさんいるらしい。今のところそういう人たちの中で、自殺が頻発しているとか餓死続出、という風な話も聞かないので、かなりの確立で生き残れているのは確かだろう。単なる生存という意味では「家」は保護的存在として機能している。

人間というのは単に生きていりゃあいい、とばかりも言っていられないようで、そうなると問題になってくるのは、世間体というプレッシャー、と、親がいなくなったら生き残れない、という予測が容易にたってしまうとこらあたりか。いずれにしろ、引きこもり戦略ではうまくない、と考えられているため不安になったり困ったりするのだろう。世間体は気にせず、ヒッキーでも七、八十まで生きていけるとなれば、様々な不満も出てくるだろうが、親も本人もそうそう不安に思ったり困ったりしないはずだ(テレビの引きこもり特集なんかでも、ものすごい金持ち、って見た覚えがない)。

世間体というプレッシャーや食ってくための苦労は直接には親が引き受けるのだが、親ははっきり口に出さないにしても態度で困っていることを示すだろうから結局本人にも影響を及ぼす。直接に世間とは対峙しなくとも、世間(家の外)の代理人、世間の象徴としての親とは対峙せざるを得ない。どれだけ引きこもろうとも、(このままではいけない、このままではいけない・・)という不安を呼び起こす世間は侵入してきてしまう。

ところが、親という世間の象徴は、赤ん坊が手足をばたばたさせるように手足をばたばたする程度の抵抗で蹴散らすことができる。親の存在が圧倒していれば手足をばたつかせることもあきらめるだろうが、そもそも引きこもりが問題になるような年にもなってそのような手足ばたばたの手段を用いているということは、その手法がその「家」の中で機能していたからだろう。世間の否定。

ヒッキーにそのような世間の否定の仕方が可能となるのは、圧倒的な世間からの圧力を「家」が減圧し、圧倒的なものでなくしているからだ。だから引きこもりは本人だけの問題ではないということになる。また、ヒッキー本人がいくら否定したところで世間は厳然と存在し圧力をかけ続けてくるため、そのような一時しのぎの否定ではなんの安心も得られない。いかに減圧された圧力とはいえ、否、減圧された圧力だからこそ同じ仕方で否定し続け、否定してもまた以前とまったく変わらず(却って圧力を増して)ストレスを受け続けることになってしまう。そういう人間がどう感じどう考えるか。親という世間の完全否定。

こうして、減圧装置を失ったヒッキーは、直接世間の圧倒的な圧力にさらされ、犯罪者となり、「家」から出ることに成功する。