気付き

広辞苑第四版から

『気付き』気が付く。心付くこと。

『気付く』①ふと、思いがそこにいたる。感づく。②意識をとりもどす。正気に戻る。

『感づく』直感的に気づく。「敵に--かれる」

『気』
①天地間を満たし、宇宙を構成する基本と考えられるもの。また、その動き。

②生命の原動力となる勢い。

③心の働き・状態・働きを包括的に表す語。ただし、この語が用いられる個々の文脈において、心のどの面に重点を置くかは様々である。A(全般的にみて)精神。「--を静める」「--がめいる」「--が狂う」「心--」 B 事に触れて働く心の端々。「--が散る」「--が多い」 C 待ち続ける精神の傾向。「--が短い」「--がいい」 D あることをしようとする心の働き「どうする--だ」「--が知れない」「まるで--がない」 E あることをしようとして、それに引かれる心。感心。「--をそそる」「--を入れる」「あの女に--がある」 F 根気。 G あれこれ考える心。「--を揉む」「--に病む」「--を回す」「--が置ける」(うちとけられない) H 感情。「--まずい」「--を悪くする」「怒--」 

④はっきりとは見えなくても、その場を包み、その場に漂うと感ぜられるもの。 A 空気。大気 B 水蒸気などのように空中にたつもの。け。 C あたりにみなぎる感じ。雰囲気。 D 呼吸。いき。

⑤そのもの本来の性質を形作るような要素。特有の香や味。「--の抜けたビール」

「--が付く」①そのことに考えが及ぶ。気づく。②細かなところまで配慮がよく行き届く。よく気がまわる。③ぼんやりした状態、意識を失った状態から正気にかえる。

「ふと、思いがそこにいたる」とか「そのことに考えが及ぶ」の、“そこ”、“そのこと”とはいったい何を言っているんだろう。

「気」とはなにか、ということを知りたいわけではない。そうではなくて、「気」という言葉の働きを知りたい。そういうわけで、「気」という言葉の働く様をあれこれと見てみると、ものすごくおおざっぱに言って、「ぼんやりとあたりを包む何とは知れないが、人に対して何か重要な働き、動きをしているもの。あるいは人も含めたぼんやりとはっきりしない状態の動きそのもの」とでも言えようか。まあ何も言ってないに等しいような「気」もするが。

何も言っていないに等しいのに、言えてしまっていることに「ある(存在)」という言葉も「ある」がそれはともかく。

「気付く」とは、その「気」がくっつく、ということで、人もひっくるめてくるまれたあるなんだかわからない状態とあるなんだかわからない状態が、くっつく、と考えてみる。その、くっつく、とはなにか、といえば、「同じ」と見なした、違う状態の中に「同じ」を見出した、ということだろう。見出した、というより、くっついてしまった、くっついてしまう働きがまずあって、それを「同じ」と言うようになった、というのが正確か。そのくっつく働きが「ふと、思いがそこにいたる」の、「ふと」の部分だろう。「ふと」でも「あ!」でも「ピン!」とでも「ユーリカ」でもなんでもいい。

そういえば永井均は「子どものための哲学対話」の中の「いやなことをしなければならないとき」という項の中で、それ(いやなこと)をするためにたいせつなこととして、ふとやってみること、と書いていた。

(猫のペレトレ)「ふと」っていうのは「不図」ってことで「意図なしに」っていう意味なんだよ。意図なしにふとやれる瞬間がくるのを待つんだ。なれてくると、人生全体をふと生きることができるようになってくるからね。そうなれば、しめたものさ。

(子どものぼく)そんなこと、できるかな。

ペネトレ)まずは、なにか言うときに練習してみるといいね。言うときなら、ふと言ってみるときに「ふと思った」って言っちゃうことができるからね。そういうふうにして、人生全体から小さな作為をすこしずつ取り去っていくんだよ。そうすると最後には、いやなことなんてなくなっちゃうさ。

(ぼく)そうかなあ・・・。

この本が出たときは買うまでもないかと思っていたんだけど、いつかどっかで立ち読みしたときにふと目にした「人生全体をふと生きる」ってところで爆笑してしまってつい買ってしまった。

脱線が過ぎた。

とにかく、「ふと、思いがそこにいたる」の「ふと」や「あ!」や「ユーリカ」、というのが意味しているところは、ある種の身体反応やそれにつきものの声(これも身体反応だけど)であろう。

つまり「気付く」のは「私」ではなく、身体が「ふと」(意図なくして)反応してしまったことを「気付く」と言うのだろう。

ある状況とある状況に、違いつつ「同じ」を見てしまう、ということは、その「同じ」が一つの抽象段階に入ったということだ(11月25日、「分析家は二度ベルを鳴らされる」あたり参照)。そこには必ずしも言葉は必要ない。ある状況に以前の恐怖を呼び起こす「同じ」を見てイヤイヤをする赤ん坊、というのはありそうなことだ。赤ん坊でなくても、その程度の抽象なら猫や犬にでもあるのではないか。状況のなかから「同じ」を見出す抽象はまず身体が行うのである。