伊坂幸太郎「グラスホッパー」

多少は気をつかって書こうとも思っていますが、これから「グラスホッパー」を読む予定のある方には、以下、ネタばれ含みのところも出てきそうなので避けて通られることをお勧めします。

小説は、前々日に取り上げた“蝉”の他、やはり殺し屋の“鯨”、妻の復讐のために非合法的組織にもぐりこんでいる“鈴木”の三者から、一人称に近い三人称の視点で描かれる。

“蝉”は、二人だけで営む殺し屋稼業の窓口、営業担当とも言える岩西に、映画「抑圧」の新聞屋店主を透かし見て、自分も操り人形のように感じてムカつき、村西を出し抜きたいと考える。

“鈴木”はさわぎに巻き込まれていく中で『自分の知らないところで、台本が用意されていて、知らず知らずのうちに、それに従わされているかのよう』に感じている。

“鯨”に至っては、「抑圧」の青年そのままに、肥満体の傲慢な店主のいる新聞屋で、不満を抱えながら働いていた経験があり、『お前は俺の操り人形かもな』などとまで言われている。

前半に書き込んだことを後半で拾って伏線とするのは、構成について褒められがちな伊坂の真骨頂とも言える部分ではあろうけど、「グラスホッパー」はやりすぎで鼻につくところがある。「ピエロ」でも「コインロッカー」でもそうだったと思うけど、ただでさえ収まりの悪い衒学趣味的記述が散見されるところに、さらにこれ見よがしの伏線を張られてもこっちはしらけるだけだ。あっちにも伏線こっちのも伏線、となっているせいか、ひどく閉じこめられた気分にもなってくる。

その閉じ込められた気分、というのが関係してそうなのが、伊坂の本を読んだときのいらだたしさだ。「ピエロ」あたりは、読み味爽やか、みたいな話をよく聞いたように思ったけど、正直、どこが?、としか感じられなかった。爽やかさ、趣味のよさをイデオロギーにした陰湿さ、というか、閉鎖性というか、そういうもののほうが気になってしかたなかった。

“蝉”は死の間際、自分の死について次のような感想を持つ。

< 岩西が死んだ。

ということは俺は解放されたってことじゃねえか、とまず思った。カブリエル・カッソの映画とはまるで異なった結末だ、と。岩西が死んでも、俺は生きている。あいつの操り人形なんかじゃなかったってことだ。「人形でいいので、自由にしてください」と惨めな懇願をした、映画の青年とは正反対の終わり方だ。 >

「人形でいいので、自由にしてください」という懇願は、地の文となり、あたりまえに「惨め」ということになっている。こういうところには、主題となっている問題より根本的思想性というか姿勢が露になってしまう。「人形でいいので、自由にしてください」とはあたりまえに「惨め」なことなのだ。

伊坂の小説に感じられるおいらのいらつきが、なんとなく見えてきた。

おいらにとって「人形でいいので、自由にしてください」は、あきらめであり悲哀でありそのために成長でもあり、一つの希望でもあることばなのだが、伊坂にとってはあたりまえに「惨め」と書けてしまうようなことなのだろう。

グラスホッパー」の中には、もう一人重要な殺し屋がいて、おいらにはこれこそ作者の分身にしか見えないのだが、このタイトルはその殺し屋の語ることばの中から取られている。そして、「人形」であったことを匂わされた視点人物三人のうち、二人は死に、一人は狂気に包まれていくことを予感させて終わっているの対し、この殺し屋だけはうまうまと姿を消して生き残っているのである。彼は人形としては描かれていなかった。つまり「惨め」な者ではなかった。「グラスホッパー」で生き残ったのはそういう殺し屋なのである。