ガブリエル・カッソ監督「抑圧」

そんな映画、存在しません。

「抑圧」、とは、気分転換に読み始めた、図書館予約でまわってきた伊坂幸太郎の「グラスホッパー」の中の劇中劇。というか、そういう映画があった、というちょっとしたエピソードの一つ。

この小説。“蝉”なる登場人物のエピソードが興味深かった。

“蝉”は冷酷な殺し屋を営んでいるのだが、ある夜、一仕事を終えた家のテレビで目にした『抑圧』という映画に気を取られ、死体の転がるすぐそこで最後まで見ていってしまう。

映画は両親を事故でなくしたフランス人青年の短い人生を描いた話。新聞配達をして暮らす青年は、彼をこき使い労働にいそしむことなく怠惰に生活している肥満の新聞屋の店主を軽蔑しきっていた。

青年は貧しいながらも恋をし恋に破れ日々をそれなりに楽しく暮らしていくのだが、店主の態度は日に日に悪くなる。見下し無茶な命令を出し時には手を出すが給料はなかなか出さない。出すとしても、青年の足元に紙幣を投げる。青年はそのたびに「手渡せ」と怒った。

最後の最後、店主を殺すためにナイフを持って仕事場に出向いた青年は、店主からこう言われる。「おまえは俺の人形だ」

激怒した青年の身体にはいつの間にか、紐がついている。まさに操り人形に相応しい紐が幾本も結ばれている。

「人形の紐だ」と店主は言う。青年の両親が死んだのも、恋愛や失恋も、もっと言ってしまえば、青年が生まれてきたのもすべて、俺の操っていた筋書きにすぎない、と。「よお、人形」と嘲笑うように、言う。

青年ははじめは笑い、そのうちに青褪め、しばらくすると絶叫する。絶叫するが、口からでるのは鶏の鳴き声で、それすらも店主の操りだと気付く。青年はナイフを振り回し、自分の紐を切ろうと暴れだし、結局、精神病院へ運ばれる。映画の終わり、青年がベッドの上で呟く。「人形でいいので、自由にしてください」

“蝉”はことあるごとにこの映画を思い出し、自分にもまた紐がついているように感じてはいらつく。

こういうのは、「お前は俺の見ている夢の登場人物だ」、であるとか、独我論的な、「自分以外は木偶坊」、のようなわりとよくある話のバージョン違いだとは思うのだけど、そういった様々なバージョンが出てきてしまう程度に、人間関係の核心をつく形を持っているように思う。

コントロールする方、と、される方。

『抑圧』のデブの新聞屋店主はどうしてそんな七面倒くさいことをわざわざしなきゃならないのか。青年の誕生も恋愛も、口に出す声までもが店主の筋書きなのに、なおもその上、青年を見下し命令し手をあげ虐げるなんてことするのは何故なのか。

それは、「おまえ」と関係を結ぶのに、そうするより作法を知らないからだ(「おまえ」、という言い方も一つの作法)。相手に分からないようコントロールしつつ自分の権力を見せつけ、しまいに決定的な一言で「おまえ」を叩き潰す。そうするのは俺の方で、俺はされる方じゃない。そうしている限り世界から脅威は拭われるのだ(フロイトのfort-Daを思い出す)。

ここでは、そもそもの脅威でありその脅威の馴致の仕方を知っていた「父」の姿は書かれていない。そんなことが描かれれば話が変わってきてしまうように、「父」はこの物語にいないが故に機能している(店主の横暴として)。

一方、青年は店主という脅威を「殺す」こと、徹底的な「否定」によって退けようとする。しかし、何をやってもその脅威はまとわりついてくる。あくまで否定を通すことにこだわり続けた結果、青年は精神病院に入れられる。そこから出るために青年は言う。『人形でいいので、自由にしてください』。

このことばは意味深長だ。まずは「あきらめ」が感じられる。そのままで(人形ではない自分)いられないことを認めている。あきらめた結果、鶏の声をあげていたのが、人のことばとなっている。そして、人形でいることと、自由であることは、青年の中で共存できている。あやつられつつ自由、ということが飲み込まれているのだ。物悲しさと共に。

小説中の映画の概要では、なにか暗い終わり方にしか見えないが(“蝉”もそう感じていると書かれている)、この台詞には人の悲哀と希望がうまいこと交じり合っているように私には見える。