「父」と「父親」

もう、しばらくはこの話題から離れたいなあ、と思いつつ否も応もなく引きつけられるのは、いったい誰の応召なのか。

「父」に比すべき何ものをも持たない「子」は、はじめ、ただひたすら「父」のするようにし、「父」の見るように見ることを学ぶが、あるところまでくると、その作法にしたがって「父」を父親と、「子」を、私、と見なす。

「父」は脅威であったがために「子」の模倣への欲望は点火されたのだが、「子」が脅威をやり過ごせるようになれば、それ以上の模倣は必要とされなくなるだろう。

「父」の脅威は「父」の作法に従うことで、単なる(いわゆる現実の)「父親」へと収斂され、同時に、それに対する「私」となって、波打つ水(脅威)を平らかにする堤防(法)となる(「父親」はこれ以降「父」の作法に従った「子」である(あった)「私」に、価値なし、と見なされる可能性を持つ。「じじー、うるせーんだよ!」)。

「私」の始原には、このように現実の「父親」ならぬ圧倒的な存在としての「父」がいたはずなのだが、「父」の作法を身に付けた「私」には、もはやそのような「父」は存在しない。圧倒的な存在なのは「子」に比しての「父」であり、「父」の作法、つまり見方の中にはそのような存在は含まれないのである。

圧倒的な存在としての「父」。始原において「私」を「私」たらしめた「父」。人はこれを「神」と名付けたのではないか。しかし、このような書き方の中には、もはや<私>の<父>は現れない。<私>はすでにここにいて『神は死ん』でいる。