内田樹「他者と死者 〜ラカンによるレヴィナス」③

■第三章 二重化された謎

内田の本文は本文としてまた別の感嘆を呼び起こすものなのだが、やはり私の現在のもやもやにいくらかでも収まりをつけてくれるのではないかと予感させる部分を恣意的に引いて考察の材料とさせていただく。

「魅惑する者」とは「教える者」のことであり、「魅惑される者」とは「教えられる者」のことである。師弟関係が欲望の関係として適切に機能するためには、つまり弟子が師に決して満たされることのない法外な欲望を抱き続けるためには、必要なことは一つしかない。それは師がその師に対して「決して満たされることのない法外な欲望を抱き続けること」である。学知の伝統においては、それは師がその師に比して法外に無知であると繰り返し告白し続けることによって担保される。伝統的智者であるラビ・エリエゼルはその師についてこう語った。

『もしすべての海がインクで、すべての湖沼に葦が生え、天と地とが羊皮紙で、すべての人が書く術を知っていたとしても、彼らは私が師から学んだ律法の教えのすべてを書き尽くすことはできないだろう。』

私たちはこのことばのうちにある種の「修辞的誇張」を見る。それはレヴィナスがその師、シュシャーニについて述懐するときに私たちが感じる「修辞的誇張」と等質のものである。偉大なるラビ・エリエゼルをさらに宇宙的スケールで圧倒する律法の師というものを私たちは経験的存在としては想像することができない。これはラビ・エリエゼルが工作した一種の「虚構」である。しかし、この「虚構」をあえて引き受けたことによってラビ・エリエゼルはラビ・エリエゼルになることができた。

師が師として機能するためには、(多くの教師が実際には誤認していることだが)実際に強記博覧である必要もないし、弟子に敬意を強要する必要もない。そうではなくて、「わが師は大洋的叡智の持ち主であり、私の学知などそれに比すべくもない」と哀しげに「それが意味するものを取り消す」だけでよいのである。

ここで内田が語る師弟関係は、ユダヤ教におけるタルムードのそれをモデルとしているのだが、このような師に対する弟子の相対仕方(私は師に比べ圧倒的に無知である)というのは、私たちの日常にも、というか、私たちの日常にこそ露となっているのではないか。それは11月22日付け当日記に書いたような「父子関係」においてである。

そこにおいては、「子」が「父(あるいは父的存在)」に比すべき何ものをも持っていない。ただもうひたすら父のするようにし、父の見るように見ることができるよう学んでいくしかない。そうするより他、その「子」を襲う具体的「脅威」を馴致することはできないから。

ラビ・エリエゼルやレヴィナスの師、シュシャーナが「修辞的誇張」や「虚構」という工作を用いてまでその師の「偉大なる叡智」を想定しなければならない意味とは何か。

それは、再び「子」となり、生き直す、ということだろう。

どのような親の子として作法を身に付けたかは知らないが、そのような作法(知)は、師の叡智から見ればまったくの無である。今までしてきたようにし、見てきたように見ていたのでは、まったく計り知ることのできない脅威があり、それに対処する術がこの「師」にはあるのだ。

しかし、一般的には、最初に身に付けた作法さえあれば、さほど壊滅的な脅威にさらされることはないため、誰も好き好んで弟子になろうとはしない。身に付けた作法に疑問符を打ち、何をどう見てどう振る舞ったら「良い」のかさっぱりわからない、などという状態には、誰もあまりなりたいと思わないだろう。

そういえばオウム真理教では、出家に際して全財産を布施し、親との縁を切る、という条件があったはずだが、これなんかはあからさまに「グル(尊師)」の「弟子」となり生き直せということだ。

それともう一つ思い出したのは、ウィルフレッド・ビオンという対象関係論学派の中心をなす人物の有名な言葉で、彼はクライアントに対するときには「記憶なく、欲望なく、理解なく」あたることを目指すようなことをどこかで書いていて、これなんかは、要するに、自分の作法を無にしてかかれ、と言っているのと同じことのように見える。

前々日に書いたように「分析家=弟子」ということには疑問符がついたが、分析家が戦略として弟子になる、ということは相変わらず言えると思っていて、ビオンのこの言葉を勝手にフォローと感じている。

でも、そうだとすると、作法が社会的に機能していなくて患者になってしまった人の「弟子」になって、その不安を呼び起こす世界の見方ややり方を一端自分の身につけてみる、となると、それはやはりえらいことのように思えるし、実際、様々な事例報告を読んでみると、分析家(それ以外のカウンセラーも)の被る圧力はただ事ではない様子ではある