擬宝珠纏萌え

今日、風呂屋にあったジャンプの「亀有公園前派出所」を興味深く読んだ。

両さんが擬宝珠纏を「男はつらいよ」のロケ現場となった柴又に連れて行って案内する、というのが今回の内容。その前段階として両津は纏に「男はつらいよ」シリーズ全作品を48時間も連続で視聴させ、柴又でも纏がへとへとになって勘弁してくれと言うほどあちこち連れまわす。それを両津は疲れも見せず嬉々として行う。

ところが、その案内中にたまたまであったこれまた「男はつらいよ」ファンの署長から宝物のビデオを見ながら長々とレクチャーされると、両津はぐったりとなってしまった。

ここには精神分析に限らないコミュニケーション全般にまつわる問題的な部分がよく現れているように見える。

纏にもある程度「男はつらいよ」に対する興味があったようでもあるにしろ、両津が嬉々として教えたがるほどにはがんばって知りたくもない様子で、両津にいたっては、署長の言うことなど全部知っていてまるっきり聞きたくない状態になっていた。

纏と両津、両津と署長、の間の関係の濃度は、教えたがっている方の情熱にではなく、聞く方の姿勢にかかっている。「男はつらいよ」を見ながら、はじめはそれなりに興味深く聞いていた両津の話を、寝てしまうことでシャットアウトするのは纏である。署長に対する両津も同じ。要するに、コミュニケーションの鍵を握っているのはひとえに聞く方にあるのだということを示しているのではないか。

世の中には聞き上手、という人がいるにしろ、多くの場合、纏に対する両津や、両津に対する署長の位置に入りたがる人間が多い、というのは気のせいだろうか。

というか、こういう場にこういうことを書き散らしているのがすでにかなり話したがりのワナに嵌っていそうではある。

フロイトの有名な症例「ねずみ男」には、フロイトがあれこれと解釈をしゃべりまくるのをねずみ男があきれて聞いている、とかいう話があるらしいが、ここにも「分析家=弟子」と認められなかった要因の一つがあるんだろう。けど、まだうまいこと見切れない。