母としての家庭・父としての世間(社会)

母親(的存在)に抱えられた保護的環境に現れた、脅威としての父親(的存在)を模倣することで、子どもにとって「家庭」が保護的環境となる。全精力を傾けてその環境に順応してきた(作法を学んできた)子どもにとっては、その「家庭」内でたとえ虐待されていたとしても、そこにしか生存の道は残されていないため、文字通り必死で順応しようとする。必死で「親(師)」の「作法」を学ぶ。結果、自らが親となったときにその「作法」を適用せずにいられなくなる。親から子へと伝わる虐待の連鎖というのはこういうことだろう。(もちろん、これはとんでもなく単純化した話であり、実際はもっともっと複雑な要素が絡み、虐待を受けた子どもが全部、虐待を受け継いでいくわけではないのは当然のこと)

子どもが遊びに出たり学校へ行くようになったりしたときに他人と関係を持つ仕方は、家庭内で許された話し方や振る舞いといった「作法」をもってするより他ない。

気に食わないことがあるとすぐ殴って解決しようとする作法を身に付けた子どもは、それを家庭外に適用してしまって、先生や他の大人に怒られたり仲間から批難をあびたりといった「脅威」を感ずる。「脅威」を感じた子どもは、そこから守られた家庭内に逃げ帰る。

子ども本人からの報告や、先生からの連絡によって、子どもの振る舞いを知った親がどうでるか、によってもまた子どもは「作法」を学ぶ。そんなことをしちゃだめでしょ!、などと言われつつ折檻を受けでもしたら、そうすることはいけないと思いつつ殴って解決する、というような「作法」を身に付けるのではないか。何も怒られずお前は悪くない、とでも言われたら、外にはあまり出ない、家庭内での暴君が出来上がりそう。

家庭内での「作法」が、家庭外での軋轢を生んだとき、そもそもその「作法」を生んだ「家庭」の親たちには対処ができない。なぜなら、そうすることの他「作法」を知らないから。口では、あれは悪いこれは良い、と言えたとしても、意識しなくても自転車に乗れるように、その「作法」で世の中を渡っている親には、それ以外の「作法」があるとは、なかなか考えない。考えざるを得なくなるのは、よっぽど、家庭外的な「脅威」が高まってきてからだろう。