「師」が知っているもの

父親的存在が果たすことになる役割は、子どもと睦み合っていた母親(的存在)の興味(視線など)を引くことで、母親から世話される環境が世界のすべてであった子どもに、その世界にはなかった脅威(母親が見つめてくれない、など)を与え、そういった世界認識というか子どもの「在り様」に「否」を持たらしきたすことだ。

クライン的に考えるなら、子どもがそのような「否」に反応する様式は二つ。「妄想-分裂ポジション」と「抑うつポジション」。前者なら、そのような「否」は、まったく無いものとして「分割」する(が、そこには無理があるのでたえずその脅威は回帰する)。後者だと、元の在り様をあきらめ(抑うつ)新たなる世界の在り様に順応しようとする。

そのための単純なやり方は、脅威をもたらしたものの「模倣」だ。「その脅威はもたらし来たらされるものではなく、私がもたらす(コントロールする)ものだ。」脅威の脱色。

身近な年長者のもたらすさまざまな脅威を、あるときは泣き喚いて叩き消し、あるときは模倣することで乗り越えようとする。

その時「模倣」されるものは何だろう。それは、年長者たちの様々な生活上の振る舞いの仕方、広ーぉく意味をとって「作法」と言っていいのではないか。あるいは「生き方」とも言えようか。

子どもの泣き喚きや邪気のない、けれどもドキッ、とする問いなどにより、たまには自分の行動を反省することもあるかもしれないが、まあ、たいていの大人は自分の振る舞い方をそのままし続ける。

他の家庭と比較することのないそのような小世界で、子どもはより安定した状態を保とうと模倣する。また、模倣の適用の時と場合を学んでいく(マネしてたら怒られた、なんてことのないように)。それが何を意味しているのかなんてことは考えない。そうすることは、ただ単ににいいことなのだ。そうせずにはいられないのだ。それを「欲望」せずにはいられないのだ。脅威を馴致するために。

その昔の剣客や、宗教家の弟子になるということも煎じ詰めれば同じことだろう。より強い剣術使いの弟子になることで、その振る舞い、作法を学ぶことで、「師」の強さを我が物とし、脅威を馴致する。より深い叡智を持つ教祖の作法を学ぶことで、苦しみ深い生から脱却する、つまり脅威を馴致する。

「師」とは、脅威を馴致する「作法」を「知っている」者である。と言ってみるとどうだろう。

チペットのヨギーだかは、「師」選びに一生だか、もっと、2,3回生まれ変わるくらいは時間をかける、みたいな話を聞いたことがあるけど、どれだけ「師」が重要なものと思われていたかよくわかる話だ。