「知っていると想定された主体」が知っているもの

19日付け当記述に、内田は「教育分析についてはよく知らない」と書いていてさすが、みたいなことを述べたが、その内田の言があった『大人は愉しい』の当該部分を全部読んでみたら

ここでいう「師」は、レヴィナスが哲学の文脈で「他者Autrui」と呼んでいるもの、(そしてもうお気づきでしょうが)フロイトが転移について論じた中で「分析家」と読んだものとほぼ同一の機能を果たしています。

とあって、「分析家」を「師」としておりました。

このところ、ず〜っとここに同じようなことを書き続けているのは、精神分析における「分析家」というのは、戦略的に「弟子」になる人のことを言う、と考えてみると、私が興味を持ってきていたありとあらゆることの見通しが立つとしか思えなくて、そこにはラカン派独自の分析家資格制度「パス」とその失敗についても説明がつくんじゃないか、という、あまりに大胆不敵すぎてわくわくし過ぎる興味に取り憑かれてしまったせいであります。そもそも、ラカンが分析家に「知っていると想定された主体」をあてがったことが、「パス」の失敗を招いたのではないか。

ただ、話題があまりにでかすぎるのと、事柄そのものの複雑さから、思いは千路に乱れ飛び、セミネールも読まねばという気もするし、だいたいこれの始まりだった「他者と死者」だってあれから先を読んでない。

まあ、焦っても仕方ないので一つ一つ、ゆっくり詰めていきます。

ということで、「知っていると想定された主体」は、何を知っているのか、ということ。

内田の本を読む限り、「知っていると想定された主体」という概念が採用されたのは、「師弟関係」のような関係を解きほぐすに有用だからで、そこには、「何を知っているのか」、は関係なしに、弟子がある人を「知っていると想定」すれば、そのある人が「師」になる、と書いてあるように読める。

ここで、「知っていると想定」する方は「弟子」、される方は「師」ということだろう。ただ、弟子は師をそう「想定」しているとは思っていなくて、ただ単に、「この方は(何かわけのわからないこと=偉大なる叡智、を)知っている」と思っている。それを、「想定している」「されている」と書くのは、第三者が見ているから、「想定」なんだろう。もうこの時点でかなりややこしい。

道家や芸道においてならば、この人についていけば強くなれる、芸を極められる、とその道の偉大なる叡智を「師」の先に見て、弟子は師を欲望し、宗教家であれば、いかにして生きるべきか偉大なる叡智を授けてくださるだろう、と師を欲望する。「弟子」になる人は、「師」が何を知っているか、知らない。あたりまえ。

では精神分析家はどうか。分析家になりたい者は、現分析家に心の病を治す偉大なる叡智を見て弟子入りするのだろうか。「教育分析」とは弟子入りしたことをそう言うんだろうか。

もちろん、一面では、特定の分析家にあこがれを持って「教育分析」を受ける者もいるだろうが、19日に書いたように、「教育分析」の要諦は、分析家を被分析者があがめるようになるためにあるわけではない。「教育分析」とは、これから分析家になりたいという人の、ある意味、治療である、と言っていいだろう。治療であるからには、「教育分析」を受けるものは、「患者」であるということだ。

では「患者」は、普通、治療者(「分析家」)を、『私の病を癒してくれる偉大なる叡智を宿したお方』のように、「弟子」となって何かを学ぼうとしているのだろうか。それは、あきらかに違うだろう。別に何も教えてくれなくてもいいから、この苦境をなんとかしてくれ、とやって来るんだろう。「患者」は「分析家」になにを想定しているわけでもない。ただ、もう、なんとかしてくれるかもしれない、と期待しているだけだ。だから、まったく意味がないと思ったら、すぐにどっか他に行ってしまう。

かように分析家を「知っていると想定された主体」と言うにはいかにも無理があるとしか思えない。