「師と弟子」、「父と子」

弟子というものは、師の持っている技術や知識を受け継ぐのではなく、師がその師に対していたような作法を学ぶ。しかし、ここで言う「学ぶ」とは、師が「これこれこうしなさい」といった「知識」の形で与えられたものではなく、弟子が師を見てそうしているから自分も同じようにせずにはいられない、という形、いわゆる「欲望」するという形をとる。弟子が見た師の「そうしている」仕方というものは、必ずしも師とまったく同じ振る舞いとなるわけではない。あくまで弟子の見た「そうしている」仕方である。

そうは言ってはみたものの、共産党員の選挙演説などを聞いていると、志位和夫を筆頭に、皆さん妙に不破哲三と似ているし(まあ彼らは絶対師弟関係などとは認めないだろうけど)、アーナンダこと井上嘉浩の説法は麻原まるうつしで、第三者から見ても「そうしてるよなあ」と見える仕方をしている弟子たちもいる。

当然、師が「資本論」や「仏典」や「タルムード」を尊重しそこから学んでいるのならば、弟子もまたそうするだろうし、それが結果として、知識や技術を受け継ぐ、ということになるかもしれない。ならないかもしれない。

きっかけはそれぞれまちまちであるにしろ、とにかく弟子は、師にあこがれ、弟子の知らない何か素敵なこと(偉大なる叡智。または単に「知」)を持っているものと思っている。それを外から見る私たちは、馬鹿げた世迷いごとをくっちゃべってる気持ち悪い教祖なのに、弟子どもは「知を持っていると想定している」んだな、と形容する。ただ、弟子にとってはそれは「想定している」わけではなく、事実、師は偉大なる叡智を体現している、となる。

この原形は、「うちのお父さんはねえ、日本一の日雇い人(ピー)なんだよ〜」(自粛)、と無邪気に自慢する子どもとその親、というところにあるだろう。

母親とそれなりに自足しているところに、いつもどっかから現れて母親を横取りし、またどっか行って何かしていて、母親はまたその人に気を引かれている様子である。ああいう風にすれば母親をもっと独占できるのか。いったいあいつは何をしているんだろう。

これはうろ覚えだが、心理療法士の河合隼雄は、家族関係の病理についての対話だか講演だか著作だかで、父親は年中どっか外をうろちょろしてわけのわからんことをしているくらいでちょうどいい、みたいなことを言ってたような記憶がある。ただ、帰ってくる、ということはしないといけないとかなんとか。「謎の人」としての「存在感」、とでも言ったらいいか。

子どもの問題行動の後ろに、存在感の薄い父親の影がちらちらしているというのは単なる私の印象にすぎないのかもしれません。「母子家庭」はどうなる、と問われたら、そういうところは、母親が何やら外でやっている「謎の人」になると答えましょう。

親は、外でなにやら知らない人たちとなにやらわけのわからないことをしている。社会関係(象徴的関係)への興味。

内田(あるいはラカンが。あるいはレヴィナスが)何故、「父と子」ではなく、「師と弟子」という対を持ち込むのか。

今日は全然話しが進まなかった。