内田樹・鈴木晶「大人は愉しい 〜メル友おじさん交換日記」

夜中に今まで見たことのないタイプの怖い夢を見て、どきどきしながら起きたら、その夢と昨日書いたこととの関連性を考え始めてしまってどうにもこうにも眠れなくなったのでもうあきらめて思いついたことを書き付けておくことにする。今日はどうせ昼間時間もないことだし。こういう、「考え」に取り憑かれてしまう状態というのは何年ぶりだろう。

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精神分析は、分析家になるために「教育分析」と呼ばれる分析を受けなければならない。これは、分析家の側の心の問題をクライアントに投げかけることで起こる問題(逆転移)を避けるために必須のこととされる。意識していない自らのコンプレックスを患者の中に発見し、それに対して感情的になってしまったのでは「治療」にならないというわけだ。

内田はこの「メル友日記」の中で、よく知らないとことわりながら、「教育分析」にタルムードの解釈に関する師弟関係と同型のものを見ていることを書いている。

それを受けて精神分析学を専攻している鈴木(この間、ピーター・ゲイの「フロイト」の2がやっと出ましたね)は次のように応じている。

内田さんの「師弟論」は、ご自身も指摘されているように、精神分析の治療場面とかなり重なります。

内田さんには説明不要だと思いますが、読者のために解説しておくと、ラカンの考えでは、分析主体(いわゆる患者)と分析者の関係において、分析者は「知っていると想定された主体」という役を振られています。(・・・)どういう意味かと言うと、分析主体は、「この先生は、私のことを何でも知っている。私よりもよく知っている」と思い込んでいる。つまり、「知」は私の中にはなく、分析者のほうにある、と。だからこそ、分析主体は「くさい靴下の臭いをかがないと、性的に興奮しないんです」といった、「恥ずかしいこと」を分析者に告白できるのです。

ここでは、分析家のほうが「知っていると想定された主体」、つまり「師」で、それを欲望するのが患者、つまり「弟子」と見なされいる。
私は、昨日後半部に書いたように、これは間逆の話だと考えている。

内田先生がレヴィナスを勝手に師匠と考えているように、私も勝手に内田先生を師匠と思っているので、上に引用した部分、師匠間違っているんじゃないかい、と思っていたのだが、書いていたのは鈴木先生のほうで、師匠のほうには、教育分析については「よく知らない」と書いてあり、やっぱりさすがだな、と妙に感心してしまったが、それはともかく。

「他者と死者」の第1章では鏡像的関係、つまり母子の二者関係を思い浮かべた私は、第2章での『象徴界への参入』のような記述を読み、師弟関係を、勝手に父子関係と同じものとみなして、昨日の文章の中にもちらりとそう書いてしまったのだが、それだと内田がわざわざ「師弟」関係について長々と書いている意を汲んでいないと気付いた。

教育分析が内田の言う「師弟関係」と同型のものであるならば、分析家の側の持ついわゆる「知識」は、この際関係のないものである。弟子は師匠が、そのまた師匠を見上げるのと同じ仰角で見上げるという「作法」をこそ学ぶのであって、フロイトラカンやクラインらの知見を学ぶのではない。

さて、教育分析の場において分析家と分析主体(これから分析家になろうという人)の二人が「知」らねばならないのは、まさに分析主体の「作法」である。なぜなら、その「作法」をのべつ幕なしに「患者」に適用するとまずい場面(逆転移)というものが必ず出てくるから。

『どういうルール(作法)でゲームをしているのか分からない謎の人』、つまり「師」とは、分析家ではなく分析主体なのである。

「知っていると想定された主体」とは、あくまで「想定された」だけであって何を「知っている」ところで関係無いのだ。確かに分析家のほうがこれから分析家になろうとしている者よりそういった関係の「知識」は「知っている」のだろうが。

ここでわかるのは、教育分析のトレーニングで何をしているのかと言うことだ。そこでは、分析家が「弟子」になって見せているのだと思われる。「師(分析家になろうとしている人)は、これこれこのように話し、振舞うのですね」と、弟子(分析家)が問えば、師は、それで合っている、と言ったり、不機嫌になって見せたり、時には泣いたりして、その解釈は正しかったのか間違っていたのか、弟子(分析家)は学んでいくのである。

あああ、まだまだ書きたいことがあるぞ〜。