昨日、もすこし書きたいと思っていたことなど。

昨日のような記述では、あたかも私が、「師」無しに独自に「学ぶ仕方」を得たかのように読めるが、もちろんそのような事実はなく、実際は、「師」の「弟子」になったという経験がなければ、封書で行われたはじめての議論のときの結果も違ったものになったはずである。

どういう「師」だったかというと、皆から「尊師」と呼ばれる「師」であった。そのとき「尊師」の一挙手一投足がすばらしい「教え(無限の叡智)」に値するものだった。

そういう事実を書き落とすというのは、「抑圧」の機制でも働いていたのかもしれないが、ひとまずそこは置いておく。

「他者と死者」第二章の後半には、二度何かが示されることよって生じる「謎」(黄石公の二度の沓投げ)と、それが何なのか否応無くひきつけられてしまうという「欲望」、そしてそれが「象徴界」への導きとなる様子が、ラカンの「『盗まれた手紙』についてのセミネール」を用いて描かれる。

『どういうルールでゲームをしているのか分からない謎の人』、と、それを追尋する人、の、非対称的な関係。「師」と「弟子」。あるいは「父」と「子」。この部分、かなり面白かったけれども、書きたいと思ったのはそこではなかった。

この章の中盤、少し先走る形で、『本書が述べようとしていることのほとんどすべてを先取り』しているというモーリス・ブランショのことばと、村上春樹柴田元幸との対談で述べたことを取り上げている。その部分は内田のプログ内(ここ)で読める。

さて、わたしがこれまで読んだありとあらゆる本の中で一番か二番目に影響を受けた「心のマトリックス」という本を書いたトーマス・H・オグデンという精神分析家がいるのだが、彼のまだわずか二冊しかない邦訳のもう一方のタイトルというのが、『「あいだ」の空間 〜精神分析の第三主体』となっていて、内田のプログでの記述には少なからず驚かされた。この邦題は著者と訳者の相談の上につけられたもので、著者の意にかなったものであるということは前書きを読むとわかる。

その本の中で書かれているところでは、現在(といっても、もう10年も前の本)のアメリカの精神分析というのは、患者がいて、治療者が治す(治療者は変わらない)、というような固定的な関係に囚われるのではない、一つの対として考えていく方向になっているという。つまり問題を患者のこころのうちに見るのではなく、分析家--被分析者、の間に生起していることに注目することで対人関係のパターンに変化を起こそう、というのがその眼目なのだと思う。先月23日に書いたサリヴァンウィニコットに見られるように、そういった傾向というのは以前から伏在していたのだと思われる。

では、「精神分析の第三主体」とはなんぞや、ということなるのだが、その説明としてオグデンは二つの症例をあげている。(その一つにはなんと「盗まれた手紙」というタイトルがついている)。わたしにとっては村上の小説よりはるかに面白いケース報告で、機会があったら読んでいただければ「第三主体」がどんなものか伺われます。

などと逃げるのもなんなので、わかりにくい説明をしてみると、ある行き詰まった分析のセッションにおいて分析家(オグデン)は前々から机の上に放り出してあったとある手紙に目を向ける。そこに押されたちょっとした印に気づいたオグデンは、差出人との関係においてそれまでまったく感じていなかった失望感を持ったのであった。また、それにまつわる連想も沸いてきた。その出来事は、あまりにささいなことだったので、放っておけばすぐに忘れてしまうか、セッションに集中できなかったことへの反省で終わるかしてしまってもおかしくないものだった。ところが、オグデンはそのような手紙への注意、感情の変化、もの想い、等々のものが、患者との関係において出てきたものだと気づく。それは、オグデンただ一人ではもたらされるものではなかった。それを体験したのは「私」ではなく、セッションを支配していた第三者であった。とこんな感じ。やっぱりわかりにくい。

ともかく、オグデンはまず被分析者の「沓を拾う」。『どういうルールでゲームをしているのか分からない謎の人』のルール、もしくは、規則、に赴く。被分析者の作法を学ぶ。(はっ!・・・この人の作法とはこういうことだったのだ!)。分析家は被分析者に一歩先んじてそこに「解釈(ことば)」を与える。被分析者はそれに答える。「そうです。そうなんです」。あるいは、「何を言っているかわかりません」。または怒り出すかもしれない(か〜っつ!)。

何らかの変容を起こした「解釈」という行為の前後には、「師」--「弟子」関係の変容がうかがわれるような気がする。それを「治療の効果」と言うのではないか。

いや、ここは、非常にいろいろな考えが形を成して、内田が「他者と死者」のまえがきに書いたよう『それまで散乱していたデータが「カチカチ」音を立てて繋がり始めた』具合になってきた。

これほどまでに面白い読書体験はこれまでなかった。ここに日録をつけはじめてまる一月になるが、その効用が出ていると思う。

がああああ、明日、明後日は片付けなければいけない用事が山ほどあって、更新が途切れるかもしれない。こういう時に限って・・・でも、そういうことってよくあるよね。