第二章 テクスト・師・他者

第一章では、語られる内容が問題となるのではない、ただ単に話を交わすことにのみ意味があるようなコミュニケーションを扱った。
第二章は、ユダヤ教の経典タルムードの解釈をめぐる「師」と「弟子」の関係をモデルとして、交話的対話、鏡像的対話ではない一方向的なタイプの対話についての説明がなされる。
この師-弟子モデルの対話においても、意味をなすのは、タルムードの知識といった内容ではなく、そこ(タルムードなどの知識)から無限的叡智を引き出すための「作法」であるという。

もし師が知識や情報を教えたのであれば、優れた弟子であれば、どこかの段階で師を凌駕し、師を軽んじることもありうる。しかし、タルムードの師弟関係ではそのようなことは起こり得ない。というのは、弟子が師から学ぶのは、師がさらにその師から律法を学んだときの「学ぶ作法」だからである。
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「作法」とは私たちが星を見上げるときの視線の仰角に似ている。
芸道において、「指を見るな、月を見よ」ということがよく言われる。私たちが師から受け継ぐのは、師が実体的に所有する技芸や知見ではない。そうではなく、私たちの師がその師を仰ぎ見たときの視線の仰角である。師がその師を星を見上げるほどの高みに仰ぎ見ている限り、仮に私の師と私の間にどれほどの身長差があっても、仰角のぶれは論じるに足りない。視線の角度は正しく継承され、私はそれを次代に相伝することができる。そして、その仰角を保持する限り、見上げる先にはつねにシリウスが光っているのである。
だからこそ、タルムードの解釈学において、師は必然的に「知の大洋」とでも言うべき「無限の叡智」を蔵するものと想定されることになる。繰り返し言うが、それは師が現実に無限の叡智を蔵しているという意味ではない。師を「無限の叡智を蔵するもの」と想定する弟子、「指ではなく月を見る」弟子には、無限の叡智へのアクセシビリティが保障されるということを告げているのである。
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師は、なにごとか有用な知見を弟子に教えるのではない。そうではなくて、弟子の「内部」には存在しない知が、「外部」には存在するという知を伝えるのである。「師」とは何よりもまず「知のありかについての知」を弟子に伝える機能なのである。

ラカンもまた、「師」が機能的な存在であることを繰り返し説いている。師は弟子に対して知見や技術をより多く所有しているわけではない。師はただ教壇の上に立っているだけである。師弟関係とは、この立ち位置の差の効果以外の何ものでもない。

そんな師と弟子の例として挙げられた能楽の、兵法の達人黄石公と弟子の張良のエピソード。

張良はある日、橋の上で馬上の黄石公に出会う。すると石公は左の沓(くつ)を落とし、張良に「あの沓取って履かせよ」と命じる。張良はむっとするが、師匠の命だから、しかたなく沓を履かせる。その数日後、張良は再び馬上の石公と出会う。石公は今度は左右の沓を落として、「張良、あの靴、取って履かせよ」と命じる。張良はさらにむっとするのだが、「なお安からず思ひしかども、よくよくこの一大事を相伝する上ハと思ひ。落ちたる沓をおつ取つて」、師匠に履かせる。すると、その刹那、「張良沓を捧げつつ馬の上なる石公に、履かせるにぞ心解け、兵法の奥義を伝えける」ということになってめでたく奥義伝授は成就するのである。
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張良がしたことはさしあたり一つの身振りに集約される。それは自分のそれまでの価値観や自負をいったん「かっこに入れて」、どこの誰とも知れぬこの「智者」の前に屈服してみせたということである。
この作法を実践した瞬間に、張良はある種の「ブレークスルー」を経験する。
「兵法の奥義」とは何らかの形ある知識や技能のことではなく、自分のそれまでの価値観や自負をいったん「かっこに入れる」仕方のことである。少なくとも能楽作家たちはそう考えていた。現に、『張良』の「小書き(特別演出)」の一つには、張良が石公から伝授された奥義の秘伝を記した巻物を開くと、それは白紙だったというものがある。この小書きは、「学ぶ」ことにおいていちばん大切なのは「何か」を学ぶかではなく「どう」学ぶかであるということを端的に教えている。師は弟子に「学ぶ仕方」を、つまり「外部から到来することばに耳を傾けるやり方」だけを教えるのである。

もう、ほとんど著作権法上認められている引用の範囲を逸脱しまくっているとしか思えませんが、クレームが来れーむまでこのままそっとしておいてください。

タルムードから無限の叡智を引き出すためには、まずは「師」から「学ぶ仕方」を学ばなければならない。もっと一般的に言ってしまえば、タルムードはタルムードでなくって、聖書でも論語でも、あるいは小説だってネット上のあれやこれやの文章だってよい。問題はそこから、どう学ぶか、だ。

ここを見ている方々の中には、私が以前、ネットのbbs上のあちこちで議論をふっかけて(実際にこちらからふっかけたのは二回ほどだけと記憶しているんですが)いたのをご覧になった方もいると思われますが、一等最初にそのようなやりとりをしたのはネットではなく、郵便を使ってのものであった。あるミニコミにほとんど冗談半分で書いた文章に対し、知り合いからいささか揶揄の入った批判を受けたのに腹を立て、あんたの批判は的外れだ、というような反論をしたところ、たがいに数回づつ封書でやりとりすることになったのである。それまで他人が度々論争をしているのを見たことはあったのだが、まさか自分がそんなことをやるとは思っていなかったので、とりあえず腹は立ったものの、感情的にはできるだけならないように書こうとまずは思った。んが。肝心の、なにを反論したらいいか、相手の批判のどこがおかしいのか、ということが、にわかにはつかめなかった。私への批判はなにかおかしいと感じるのに、いざ、反批判をしようとすると、どうも何を書いていいのかわからない。何が問題なのか。さんざん悩んで考えまくってもまだぼんやりしていたところに見通しがたったのは、なんのことはない、相手の文章をよく読む、ということだったんですな。

初めて受けた批判、見下したような文面、そういう上っ面に感情的に反応したものの、そこになにが書いてあるかはちっとも読まなかった。それは、内容、が問題なのではなかった。そこに書かれている「文章」そのものにこそ問題があった。なにが言いたいのか、ではなく、どう書かれているか。これは、こう書くとあまりに当たり前のことのように思えるのだけれど、実のところそうではない。

人はなにかを読むとき、自分のアンテナに引っかかった単語や文章に引きずられて、そこには書いていないまったく別の問題を読み取ってしまうものだ、ということを、いくつかの議論の当事者になった者としてつくづく感じた。その最悪な例としては、そもそも自分からちゃちゃを入れてきたくせに「あなたが何を言いたいのかはわかったが、わたしはそこに興味がないのでさようなら」などとさっさと逃げをうった奴がいたことだ。興味がないもくそも、最初の郵便での議論の経験から、わたしがあれやこれやと人の文章をあげつらったのは、何が言いたいか、という内容ではなく、何が書かれているかどう書かれているか、という表面的なことだけで、そこでそう書くのはあんたおかしくないかい?、と聞いたところに、わたし(fkj)のいいたいこと、なることを手前勝手に忖度して、さようなら、とはそれはないだろう、と。今、思い出しても腹が立つ。

ただ、まあ、それでわかったのは、どれほど頭がいい人だとしても、というか、頭のいい人ほどある文章を読んですかさず「言いたかったこと」、なるものを理解し、どう書かれているか、ということは読まないのだ、ということだ。要するに「沓を拾え」と言われても、バカらしいので拾わないのである。しかし、そういう人間の沓を、わたしは拾えるだろうか。

まあ、拾わなくてもいいんだけどさ。