第一章 知から欲望へ

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メッセージの中には、伝達を開始したり、延長したり、打ち切ったり、あるいはまた回路が働いているかどうか確認したり(「もしもし、聞こえますか」)、話し相手の注意を惹いたり、相手の注意の持続を確認したり(「ねえ、聞いているんですか」とか、ショークスピア風に言えば「お耳をお貸しくだされ」、先方の電話口での「はい、はい」)するのに役立つものがある。(・・・)これはまた小児が獲得する最初の言語機能であって、小児は情報をもったメッセージの発信や受信ができるようになる以前は、すでに伝達を行おうとしたがるのである。(ローマン・ヤコブソン『一般言語学(P191)』における「交話的機能」の説明)

交話的コミュニケーションの一例としてヤコブソンは「新婚夫婦の会話」を挙げている。

「さて」と青年は言った。「ええ」と彼女。「着いたよ」と彼。「着いたのねえ」と彼女。「そうさやっと来たんだよ」と彼。「ええ」と彼女。「うん、そうさ」と彼。(同P191)

彼らの間を行き来することばはただ一つの「欲望」しか運搬していない。それは、「私たちのあいだにはコンタクトが成立している」という事実を確認したいという欲望である。コンタクトが成立していること、相手のことばを聞き取ったことを相手に伝える最も確実な方法は相手の言ったことばを繰り返すことである。だから、二人はウロボロスの蛇のようにおたがいのことば尻を「食い合っている」。

テレビや雑誌のちょっとした「心理」特集で見たことがあるかもしれませんが、気に入った異性と上手いこと付き合いたいと思ったときのテクとして、「ミラーリング」というのがある。相手が脚を組んだらこちらも脚を組み、なにかの拍子に口元に手を持っていったらこちらも顔の周辺に手をもっていく、というような。ただ、これは、相当うまくやらないと相手に、マネしている、と気取られて逆効果にもなりかねないので安易な使用は控えましょう。

カウンセリングなどといった場や、カウンセリング以前の言語的な交換に相当な困難がある病者とのコミュニーションにおいてミラーリング、あるいはリフレージングと言うのか、この、「ことばの繰り返し」という技法がとられることもあるらしい。それは、「(患者さん、)あなたは一人ではない」、ということの原始的なメッセージといってもいいのだろう。原始的、というか、本能により近いメッセージ。13日に取り上げた竹内敏晴「癒える力」の中にもこんなことが書いてあった。
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カウンセリングなどで、聴き手があいてのことばの一区切り毎に「・・・だとおっしゃるのですね」と念押ししては先へ進むやり方があるが、来談者の言いたいことを自覚させたり確かめたりする必要からでもあるだろうが、実はその根底には、密かにそのひとの身になり、共に生きることを築いてゆく作業が行われているのではないだろうか、と思う。それが半ば無自覚であっても行われうるということは、相手のからだの動きを対象化し意識して見入る以前に、からだからからだへ響きあうように伝わって来ることがあるからに違いない。

ちょっと驚いたのは、この部分に続いて、わたしは全然違うルートで知ることになった神田橋條治先生(11月8日参照)の「精神科診断面接のコツ」が取り上げられていたことで、やはり、同じような問題圏の人なんだと少しうれしくなった。それはともかく続き

著者(神田橋)は、ある時、患者が黙り込んでしまって、ただじっと自分の足先を見つめて身動きもしなくなってしまった時、思い悩んだ挙句、ふと患者の姿勢をまねて自分も足先を注視してみた。

すると、何かこの場の雰囲気といったようなものが伝わってきて、いま患者がかなり生産的な思考をしているのだと、確信をもてたような気がした。こちらから話しかけたりして乱してはならない。今は黙って待つのが最良の策だと確信できた気になった。

それから著者は、「姿勢をまねる」方法を用い始め、次々に、言葉のつかい方、語り方、呼吸のテンポなど、たくさんのからだの動きをまねるようになった、と言う。口まねやパントマイムに凝るようになった、とも書く。
しかし、目の前にいる人のまねはしにくいことに気づいて、じっと座ったまま、イメージによって相手のからだと合体する方法を考え出す。ほんの一瞬だが「自他の境界が消滅した瞬間」と形容すると感じが伝えられそうな、と書かれている。この短い期間の間に、「患者の心性がつかめたような新鮮なひらめきが生ずることが多い」と。
そして、神田橋はこうつけ加える。

実はそのことは、古人が皆体験的に知っていた平凡な事実を、あらためて確認したにすぎない

先月後半に何度か取り上げたのだが、ラカンの「鏡像段階」というのが、引用した記述それぞれと深く関わっているのは間違いないだろうと思われる。
「真似る」ということ。しかし「真似る」だとあまりに意識的にすぎる言葉になってしまうので、鏡像的現象、とでも言おうか。
以前ここに書いたあとも、他にはどんな風な「鏡像段階」についての説明があるか調べていたのだが、シェママという人の辞書の以下の記述が、非常に示唆的であった。

鏡像段階は同一化の一つとして、すなわち主体がある像をわがものに引き受けるときに生み出される変容として、理解されるべきである。この像が形成的な効果を持ちうるということは動物行動学上の観察により証明されている。事実、鳩では生殖腺の成熟には同種が視界内に置かれていることが必要条件となる。しかもそれは鏡に映し出された自分の像で十分である。同様に、トビイナゴの弧棲型から群棲型への移行は、ある段階の個体に、類似の像の動きをただ視覚的に見せるだけで引き起こされ、この類似の像の動きとはその種固有の運動に十分近い様式の運動でありさえすればよい。これらの事実は同種形態的な同一化の次元に属する。そこで同時に像は、すでに自我の誤認の機能を指し示すおとりの能力を保持していることが明らかとなる。

「その種固有の運動に十分近い様式の運動」、「同種形態的な同一化の次元」。
生物は、どういうわけか、そういうシステムを備えている。(科学的に)正しいか間違いかはこの際おいておく。
ラカン、その他、精神分析的言説のややこしさ、わからなさは、そこから「私」なる機能の生成を説明しようとするところにあって、それは結局のところ古典的な哲学的問題の難しさ、それを語ることの困難と同型をなしてしまうに違いない。
神田橋はそこに、「自他の境界が消滅した瞬間」なる形容を呼び込んだ。「私」はなにを語れるだろう。

最後に、あまりにゆかいな交話的コミュケーションの例を挙げて本日はおしまい。

(「他者と死者」P37。小津安二郎秋刀魚の味』の平一郎(佐田啓二)と節子(久我美子)のやりとり)

平一郎「やあ、おはよう」
節子「おはよう。ゆうべはどうも」
平一郎「いやあ」
節子「どちらへ」
平一郎「ちょいと、西銀座まで」
節子「あ、それじゃ、ご一緒に」
平一郎「ああ、いいお天気ですね」
節子「ほんと、いいお天気」
平一郎「この分じゃ、二、三日続きそうですね」
節子「そうね、続きそうですわね」
平一郎「ああ、あの雲、おもしろい形ですね」
節子「ああ、ほんとにおもしろい形」
平一郎「何かに似てるな」
節子「そう、何かに似てるわ」
平一郎「いいお天気ですね」
節子「ほんとにいいお天気」